この二ヶ月、共同通信社の豊田祐基子記者から取材の申し入れがあって二回ほど会った。三〇歳台の若い女性記者なのだが、実に怜悧で戦後政治についてよく勉強している。2006年9月から1年間、米ジョンズ・ホプキンス大高等国際問題研究大学院に留学、エドウィン・ライシャワー東アジア研究所客員研究員でもある。
2006年11月にジャパンタイムズから「2005年の日米関係 ライシャワーセンター年次報告書」という研究書が出版されたが、ジョンズ・ホプキンズ大学高等国際問題研究大学院から出たもので、翻訳者にカルダー淑子,神江沙蘭,古城佳子,豊田祐基子,渡辺和紀の名がある。タイトルは「The United States and Japan in global context:2005」。
岸内閣から池田内閣を経て佐藤内閣に至る日本の政界の裏話をさせられたが、米側資料を読んでいて質問してくるだけに、私の方でも「オヤ!」と思う解釈や発見があって、三、四時間のインタビューが短く感じられるくらいだった。
話をしながら共同通信社というワクにはまらない女性記者だな、と感じざるを得なかった。いずれ独立して自分の足で歩くだけの器量がある。先輩ぶるわけではないが、才能豊かな後輩記者を応援する気持ちになった。
戦後政治の分析には二つの手法が欠かせない。ひとつは政治は人間のドラマでもあるから、できるだけ直接会って生の材料を一杯持つことが必要である。学者などによくある記事、記録の孫引き、引用は少なくする。
もうひとつは逆の話になるのだが、政治の出来事の中に一定の法則を発見する思考が必要だと思う。この両輪がうまく働くと一〇年経っても変わらない政治分析を残すことができる。
前者については吉田、池田、佐藤内閣の裏舞台を知り尽くした辻トシ子さんに是非会ってみるように勧めた。保守合同の仕掛人・辻嘉六氏と日本初の女性秘書官として総理官邸の主だった辻トシ子さんを欠いては戦後政治の真相は分からない。
辻トシ子さんに豊田祐基子記者を紹介したら快く面会に応じてくれた。一度でなにもかも話をして貰えると思ったら間違う。信用を得るまで足繁く辻事務所詣が必要になる。
後者については仙台支社以来の旧友だった朝日新聞の石川真澄氏の話をした。毎晩のように東一番丁のおでん屋「三吉」で飲み、語り合った仲間だが、九州の理工系大学の出身だけあって政治の出来事を数量化して分析するという途方もないことを考えていた。
やがて私も石川氏も東京本社の政治部で仕事をすることになったが、石川氏の斜に構える姿勢が気になった。1984年のことである。「これ読んでみてよ」と一冊の新書本を渡された。
岩波書店から出た「データ戦後政治史」の初版本だった。副題は「なぜ自民党支配なのか?」とある。政治の出来事を数量化して分析する夢が実現した。それ以降、岩波新書で「戦後政治史」「戦後政治史(改訂版)」が出たが、私にとっては最初の「データ戦後政治史」が一番優れた分析書だと思っている。
エドウィン・ライシャワー東アジア研究所客員研究員である豊田祐基子記者は、むしろ後者、石川氏のタイプなのかもしれない。だがアメリカ政治も日本政治も結局は人が作るものだから、リーダーの性格によって変わってくる。やはり前者と後者は車の両輪なのである。
話の途中で「ところで出身地は東海地方?」と聞いてしまった。豊田姓からトヨタを連想してしまったからである。「いいえ、磐城の豊田です・・・」。
この磐城の豊田姓は歴史的にみて興味ある一族である。まだ豊田祐基子記者には言っていないが、「奥相志」という古文献に「室町の初期、豊田三郎左衛門清弘あり、文安二年、菅沢胤人と謀り、牛越定綱を誅し、功を以て、行方郡高平邑内八十八貫文を賜う」とある。さらには「この豊田氏は青田氏の事にして、その祖・祐胤は下総の豊田から来るという」と記録されている。
これだけでは分かり難いが、室町以降、奥州相馬氏が関東、東北に勢力圏を広げる歴史の中で磐城豊田氏が登場している。
この磐城豊田氏は下総国豊田郡豊田邑から起こった下総豊田氏の分流。平将門の流れである桓武平氏常陸大掾族である。この一族である青田氏が磐城国相馬郡(行方郡)耳谷村山沢塁という小さな山城に拠った。「奥相志」には青田孫左衛門祐胤、下総より来たり山沢塁主となる、とある。
おそらく下総豊田氏の分派である青田氏が磐城国相馬郡に来て、奥州相馬氏に帰属したのではないか。奥州相馬氏に従って牛越定綱攻めの先陣をつとめたのであろう。青田氏から豊田氏を名乗ったのは、その頃ではないか。
もっと面白いのは奥州相馬氏の末裔である第三十三代当主和胤氏の夫人は、麻生太郎首相の妹・雪子さん。世間は狭いものである。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト(11月5日現在2470本)
2493 磐城豊田氏の末裔から取材される 古沢襄

コメント