西川一三さんの「秘境・西域八年の潜行」は四〇年前の著作だが、そのインド・ネパール篇は今読んでも参考になる。普通の旅行記とはひと味違う。西川さんは大日本帝国時代の駐蒙大使館調査部勤務となり、ラマ僧姿で西北支那に潜入を命じられた。
いうなら敵地に潜入するスパイなのだが、潜行範囲は内蒙古、寧夏、甘粛、青海、チベット、ブータン、西康、シッキム、インド、ネパールに及んでいる。昭和25年6月になって、ようやく帰国したが、すぐGHQ(連合軍総司令部)から六ヶ月間の事情聴取を受けた。
この本の存在を教えてくれたのは山岳家の菊池今朝和氏だった。潜行地域には世界最高峰のヒマラヤなど、その踏破記録が詳細に書かれている。敗戦直後の日本だったが、日本山岳会では西川さんの三二〇〇枚にもなる記録が注目され、話題になったという。
だが西川さんの記録は読んでみれば分かるのだが、その土地の人情、風俗、歴史といったものに多くのページを割いている。いずれ日本軍が占領するであろう敵地の情報を細かく集めている点で、第一級のスパイ情報となっている。
私が興味を持ったのは、英国統治から独立して間もないインドに潜入した記録である。帰国する半年前の昭和25年正月が終わった頃、当時の東パキスタン領の寒村で一人のパキスタン人がインド人に殺害された。
この事件がきっかけとなって、東パキスタンのパキスタン人がインド人の家々を襲撃して略奪、強盗、放火、殺人を繰り返した。この情報が脱出してきたインド人によって伝えられると、西ベンガルのインド人がパキスタン人の集落を襲撃する報復行動に出て、動乱が終息するのに三ヶ月もかかっている。
インド人とパキスタン人の宿命的な対立意識の原因について西川さんは、次のように分析した。
第一にインド人は「パキスタン人は我々の国に侵入して来て住みついた”宿借り人種”である」という意識がある。「我々インド人は地主で、彼らパキスタン人は我々の雇い人に過ぎない」という優越感が根底にある。
次ぎに両国の国民性の違いがある。これは日本人と支那人の国民性の違いに類似している。インド人は支那人と同様に、その広大な領土とともに鷹揚な気性の持ち主だが、パキスタン人は小国の日本が大国の支那を狙っているような、激しい気性の持ち主である。
さらにヒンズー教と回教(イスラム教)の宗教上の対立が深刻な状態にある。インドの街という街、どんな小さな街に入っても、船に乗ってもインド人とパキスタン人経営のふたつの食堂がある。インドに巡礼にきたチベット人、蒙古人がパキスタン人が経営する食堂に入ろうものなら「同じ仏教徒なのにどうして異教徒の手で作ったものを食べるのか」とつるし上げにあう。
英国統治の時代には目立たなかったインド人とパキスタン人の憎しみ合いは、インドから追放されたアングロサクソンが仕組んだ謀略だという説を西川さんは紹介している。
インド独立に際して、ヒンドスタンと東西パキスタンのふたつに分離されたのだが、インドの主要産物である綿花や小麦のほとんどは東西パキスタン領で産出され、インド領ではほとんど産出しない。しかしこの綿花を加工する繊維機械工場はインド領にあって、パキスタン側にはない。また工業の原料となる石炭はインド領にあって、パキスタン領にないという皮肉な境界線を引いてある。
この精神的、物質的理由から、両民族の闘争相克が必ず起こると予想して分割線を引いて、英国がインド内の勢力回復を図ったという謀略説である。ラマ僧姿でインドを放浪した西川さんだったが、その観察眼は第一級の諜報家のものである。
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2549 印パ対立は英国の謀略? 古沢襄

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