宮内庁の金沢一郎皇室医務主管らは、天皇陛下のご不例について9日、胃カメラによる検査結果を発表した。
結果、陛下の胃や十二指腸には、びらん(糜爛)など出血のあとがあり、「急性胃粘膜病変」とみられるとの診断を下した、と報じられている。急性胃粘膜病変とは、以前は出血性びらん(ただれ)、急性出血性胃炎、急性潰瘍(かいよう)などと呼ばれていた。
胃の粘膜障害による出血性の病気の総称だ。病気の性格や治療法などがよく似ているため、現在ではこのような病気を急性胃粘膜病変と一括して考え、治療されることが多くなっている。
症状は、突然、腹部の上のほうに不快感、痛みなどを感じ、人によっては、しばしば潰瘍性の異常が起きたところから出血するために吐血・下血などを起こすこともある。
金澤医務主管によれば、原因は精神的・肉体的なストレスと考えられ、12月23日に行われる天皇誕生日や、年末年始の日程のご負担を軽いものに変えていく必要があると提言した、と各紙は伝えている。
胃や十二指腸など消化器系の異常、吐血・下血—。これらの用語は20年以上前の出来事を連想させる。さきの昭和天皇のご不例である。
筆者は、昭和51年から2年間、宮内庁を担当し、この間、天皇や皇太子(今上天皇)ご一家の動向を取材・報道した経験があるが、今だから言える最大の仕事はじつは“Xデー”の検討だった。宮内庁担当をはずれ、報道局整理部に入った後もその仕事は継続してつづけられ、62年4月29日、遂に恐れていた事態Xデーの近いことを予感させる兆しが表面化する。
この日、天皇誕生日の祝宴の席上、食べたものをもどされる。そして9月22日、宮内庁病院で開腹手術を受けられた。執刀医・森岡恭彦東大教授の所見は、膵頭部領域に鶏卵大の癌が認められたというものだった。
しかし、この日夕刻の記者会見では「膵臓の腫大が一二指腸を圧迫し、(食べ物の)通過障害を起こしていたので、十二指腸上部と空腸をつなぐバイパス手術を行った」と発表され、癌を発見した事実は伏せられた。
当時のメモや報道をひっくり返してみると、記者団からは「癌ではなかったのか」と質問が集中したが、森岡教授は「組織を採って病理検査をする」と答えただけだった。手術から1週間後、病理検査の結果「癌組織認めず」と発表している。
手術は一応成功とされ、天皇は翌63年正月の一般参賀にも姿を見せられたが、その年の9月19日夜、吹き上げ御所2階の心室で食後に激しく吐血。
その後、111日間、3万ccにのぼる”輸血大作戦“の末、64年1月7日未明、崩御されたのだった。
ところで、先日発表された今上天皇の不整脈については、脈が、時々飛ぶ「上室性期外収縮」と診断されたが、現状では収まっているという。心臓には、丁度、漢字の「田」のように4つの筋肉の部屋があり、上の二つを「上室」、下を「心室」という。上室は心房のことであることから「心房性期外収縮」ともいう。
この不整脈は普通、単発的なものが多く治療の対象とはされない。しかし、自覚症状が強くて、症状が続けて起きる場合は心臓に病変が見られることが多い。心房細動などの頻脈に移行することがあり、この場合には治療が必要になる。しかし、いまのところその心配はないとの診断である。
皇室記者団の前には、いわゆる「菊のカーテン」といわれる堅固な報道規制が立ちふさがっている。
皇室には「オモテ」と「オク」がある。
オモテは行政機関としての宮内庁で、記者クラブがあり、公式発表はここを通じて行われる。当時、天皇の容態を毎日伝える定例会見の矢面に立ったのは前田健治宮内庁総務課長だった。
彼は70年安保当時、学生運動を扱う警視庁公安部公安総務課の課長代理だった。筆者ら記者の間では「マエケン」と親しみを込めて呼ばれていたが、何を聞いても無表情で、そのころから口が堅い記者泣かせの取材対象として有名だった。その意味で宮内庁総務課長は、うってつけのはまり役だった。
これに対してオクは、侍従長(当時)をはじめとする侍従、女官長(同)以下の女官らが皇室のいわば私的使用人として天皇家に仕えている。したがって、天皇の私的な生活空間である吹上御所でのご様子は側近の侍従から取材せざるを得ないのだが、そろいもそろって“無口集団”なので、取材の裏を取るのは困難を極める。
医師団もまた真実を正確に話すとは限らない。癌だったことが明らかになったのはずっと後のことである。
だが、天皇のご不例は、あれから20年を経た今も、重大な関心を持って見守らねばならない。相手が相手だけに、ご不例の真実を突き止めるために、取材者は20年前もそうだったように心臓疾患や消化器疾病など高齢者に多い疾病に関する専門知識についても急いで研鑽を積む必要があるだろう。
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2569 天皇陛下ご不例の真実 石岡荘十

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