2584 譲歩の末のほろ苦い敗北 古沢襄

いまさら恰好をつけても仕方ない。ヒル米国務次官補の際限のない妥協外交には終始厳しい批判を加えてきたが、許せなかったのは日本の外務省を見下したヒル氏の態度であった。日本の外務官僚を空港まで呼びつけて、外務省にも官邸にも顔を出さずに北京に飛んだことがあった。
外務省にも同じ様な人物がいた。外交ごとは秘密主義になるのは避けられないが、それも程度がある。何もかも自分一人で抱え込んで、トップには交渉内容を報告するが、あとは自分勝手に走り回る。
その交渉スタイルが見事に失敗した。私ほど露骨な批判はしていないが、毎日の草野ワシントン特派員のレポートは「譲歩重ね”敗北”」と手厳しい。「外交成果を急ぎ、北朝鮮に譲歩を重ねたブッシュ政権の交渉戦術が、最終局面でほころびを露呈した」というのはまさにその通りだ。
米国が北朝鮮の核問題を解決して、非敵対的な関係を築こうとしたのは、今度が初めてではない。1989年1月にジョージ・ブッシュ政権が誕生した時に米偵察衛星が北朝鮮の寧辺でとらえた核施設らしきものに注目した。
北朝鮮が核を持った時に日本と韓国に核保有の連鎖が起こることを米政府は怖れた。北朝鮮の核についてワシントン・ポストに書いたのはドン・オーバードファー記者。これに対して北朝鮮の国連代表部は「まったく根拠のないでたらめだ」と一蹴している。
1992年に入って米国は米朝二国間交渉を開く決断をしている。北朝鮮側も米政府との高官レベルの直接会談を模索していた。1月21日にニューヨークの国連本部でアーノルド・カンター国務次官が北朝鮮の金容淳労働党書記と歴史的な会談をしている。
この年の11月、州知事だったびビル・クリントンが現職のブッシュ大統領を破って民主党大統領が誕生する。この瞬間にブッシュ政権は米朝対話から手を引いている。1993年1月20日にクリントン政権が誕生したが、就任後の半年は組織的な政策を立ち上げる余裕がなかった。オバマ政権も同じであろう。
北朝鮮と本格的なアプローチが始まったのは1993年6月2日。米側の交渉担当者はロバート・ガルーチ国務次官補、北朝鮮側は姜錫柱第一外務次官が登場している。交渉は難航したが1993年10月21日にジュネーブで合意文書の調印が行われた。
米国は軽水炉を提供し、その建設期間中は代替エネルギー(年間50万トン)を提供することで北朝鮮が核武装化しない約束をとりつけた。しかし、この合意が守られなかったのは、その後の歴史が示している。
<(ワシントン草野和彦)ブッシュ米政権下で最後となる見通しの6カ国協議開催に際し、米国は「検証枠組みの合意文書化以外に目的はない」(ライス国務長官)との姿勢で臨んだ。しかし、協議が「成果」なく終わったことで、オバマ次期政権に課題は引き継がれ、北朝鮮核問題を解決する場としての6カ国協議の有効性が問われる事態になった。外交成果を急ぎ、北朝鮮に譲歩を重ねたブッシュ政権の交渉戦術が、最終局面でほころびを露呈したと言えそうだ。
検証枠組みのうち、サンプル(試料)採取の合意取り付けは、米国には絶対譲れない一線だった。「公式文書でも付属文書でも何でもいい。公になって法的拘束力があれば」。協議関係者は事前にこう語り、体裁より実利を求めた。
北朝鮮はプルトニウム生産量を38・5キロと申告。その真偽を確認するために欠かせない核施設などでの試料採取ができなければ、「ただの視察」になってしまうからだ。
譲歩を繰り返したブッシュ政権の交渉姿勢への懸念は以前から強かった。北朝鮮に「核計画の完全かつ正確な申告」を求めるはずが、高濃縮ウラン計画やシリアへの核技術協力は非公開文書扱いになった。「厳格な検証」を目指した10月の米朝会談で、試料採取を口頭での合意にとどめたことが、今回の協議で米国自らを追い込んだのは明らかだ。
そして、「口頭での合意」を得るために、米国は北朝鮮のテロ支援国家指定解除という「最後の交渉カード」まで切っていた。
6カ国協議は、ブッシュ政権1期目の03年に発足。同政権は、協議の枠組みが「実績」としてオバマ次期政権に継承されることを望んでいる。米国家安全保障会議(NSC)のワイルダー・アジア上級部長も協議前「他の参加国が、次期米政権の北朝鮮対策に関心があるのは理解できる」として、まずは「次期政権が価値を見いだす交渉の場」にすることが大切と強調した。
そのためには今回、検証の枠組みの文書化と、第2段階措置(核施設の無能力化と核計画の申告)完了に道筋を付け、進展を印象付ける必要があった。
「(合意文書に)試料採取が盛り込まれないと、我々の負け」。協議直前、ヒル米国務次官補はこう語っていたが、それが現実となってしまった。(毎日)>
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