「現代の呉三桂」と比喩されはじめた連戦(台湾国民党名誉主席)。漢族史観最悪の売国奴、山海関を明け敵兵を入れた呉三桂の再来?
どうやら国民党内部、がたがたの内紛、主流派の激甚なる内訌が始まっている様相だ。
北京がターゲットに選んだ親中派代理人は連戦(国民党名誉主席、元副総統)である。
北京の言い分を聞く政治家として「遣いで」があるうえ、確固たる歴史観のない、間抜けな指導者、しかし党内に残る守旧派への影響力があり、本人は台湾外交を指導していると錯覚し、さらには馬英九より上席と思っているから始末に負えない。
2000年台湾総統選で、連戦は国民党の正式公認候補だった。押し出しが弱く、リーダーシップの薄い政治家だった。
しかし政権与党を掌握していた李登輝が、連戦を表向き支援し、よって国民党は分裂し、党内最大の実力者だった宋楚諭は李登輝に反旗を翻して、「親民党」をつくって脱党。だから陳水扁民進党が、予測だにしなかった「漁夫の利」を得た。連戦は最下位だった。
04年、連戦はふたたび総統選に挑戦したが、僅差で敗退して陳水扁の再選がなる。
連戦の政治生命は失われた。いや、その筈だった。爾後、国民党内で若返りを求める声が広がり、馬英九が、本省人政治家=王金平を大差でやぶって正式候補となり、08年三月の総統選挙では、民進党の謝長挺を軽々と破る圧勝。
だが、馬英九が台北市長時代の機密費流用問題が尾をひいて国民党主席へのカムバックがはたせず、客家人政治家=呉伯雄が、主席に収まる。飾りである。
また馬英九は粛万長を副総統として閣内に封じ込めて本省人派閥を取り込み、煙たい先輩格の江丙伸を海峡基金会理事長に、大陸委員会主任には李登輝系列の女性を充てるなどして、事実上の大陸問題の最終意思決定者を空白にする。
このポストの星雲状態をみてとった連戦が、政治生命の復権をねらって鵺的な動きを始める。
ポイントは国民党内の権力の分裂状況、派閥の分裂、最終意思決定者がいったい誰になるのか、分からない状況が出現したことである。
▲馬は基軸が不明瞭、背骨がない政治家
馬英九総統は路線がジグザグ、左右のぶれが激しく、台湾の自主開発のミサイルを不要と言ったり、23日には台湾南部屏東での軍事演習を視察して「軍備は必要」と言ったり。
反日活動家だったが、いつの間にか『私は反日ではない。日本はきわめて重要な国』と格上げし、呉伯雄、江丙伸、王金平らを次々と日本に派遣したり。
北京は連戦を駆使して、馬英九の遠隔操作ができると踏んだ。馬英九が国民党を掌握していない現実に乗じたのだ。
不遇をかこつ連戦を北京に招待する微笑外交から、国民党内部の切り崩しをはじめる。
1999年8月、李登輝総統(当時)が「台湾と中国は特殊な国と国との関係」とする二国論を主張したとき、連戦は反論もせず、副総統としての職務をこなした。
同年六月だったか、連戦主宰の茶話会に招かれたおり、筆者は次の質問をしている。
「中国は改革開放以来、深センを第二の台湾と位置つけて経済発展に歩み始め、つぎに広東が第二の深センとなり、やがては中国全土が第三の深セン化する。つまり深センの経済発展のモデルは台湾であり、いずれ中国が台湾化するのでは」と水を向けたところ、非常にうれしそうに笑った。
いまとなっては正反対で台湾が中国化していく日々だ。
2004年三月、捲土重来を期した総統選で、連戦は台湾の土地に五体投地を演技して、台湾への愛を表明した。「台湾2300万人国民のために経済を富ませ、自由を謳歌する体制をまもる」とも言った。
投票日直前の陳水扁銃撃事件で、連戦の復活はなかった。
05年4月29日。連戦は突如、訪中する。
「雪解けの時期が来た」と北京の地を踏んだ連戦は胡錦涛と会見し中台の歴史的和解を演出した。
連戦家の故郷といわれる西安にも行って、ご先祖の墓に詣でた。嘗て反共を鮮明にして、「中国は独裁の妖怪が済む、悪魔の体制」と攻撃してきた連戦が、「豹変」したのだ。反共の政治家は、一転して容共の先端を走る。
同年10月海南島の農業フォーラムに出席し、技術交流、民間交流の輪を拡大し、経済での協調が、誤解を減らし、良い環境をつくる」として、さらに国共合作の歩みを進めた。
2008年12月15日、連戦は天津に飛んで、中台海運直行便セレモニーに出席した。
そのまま滞在を続け、18日に杭州の記念館で反日演説、19日には上海へはいって中台国共論壇に出席し、賈慶林と握手した。
さらに12月20日上海で開催された中台経済合同会議に出席する。台湾の愛国者からは、連戦は売国奴と非難されても蛙の面になんとか。かくて「現代の呉三桂」とは連戦であるのか。
(注 呉三桂は明代末の軍人。先祖は江蘇省、父親も軍人の代から遼寧が地盤。北京防衛の大役につくが、軍事情勢の激変にともない、李自成との対立関係からも清兵を山海関をあけて領内に入れ、明を裏切った。
呉三桂は清軍とともに北京へ進軍し、究極的には清国建国の軍事的貢献者となる。晩年に清国に反旗を翻し南国に独立国を樹立するも短期に潰えた。漢族史観にたてば、呉三桂は売国奴の典型)。
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2622 連戦は現代の呉三桂? 宮崎正弘

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