2639 毎日が正月だよ 渡部亮次郎

正月が来る。来れば晩酌が午後2時に繰り上がり、滅多に会わない親戚、家人の姉、弟、甥らがやってきて料理を食べる。料理の値が少し張るだけで昨日と同じ。考えるまでもなく今は毎日が正月みたいなものだから感激は一つもない
生活が楽になったのだ。雪国秋田での少年時代。隙間風だらけで寒かった。居間では囲炉裏で焚き火。正月だけ座敷で炭火。煙たくないだけ良かったが、良かったのはそれだけ。あ、田圃へ出なくてもいいのも良かったか。
餅と膾(なます)が出たが、餅は今に至るも好きでは無いから喜ばない、膾は酸っぱい上に甘いから嫌い。こんな正月のどこが良くて、大人は盆踊りで「盆の十三日、正月から待っていた」なんて唄うのだろうか。とにかく私はこの集落を出てゆこうと早くからハラを決めていた。
当時の米単作地帯では雨が降らない限り田圃に毎日出なければならなかった。田圃では畦道の草刈はじめ何かかにか仕事があった。だから夜中に降る雨を百姓泣かせの雨と嘆いた。雨だ仕事は休みだと喜んだのもつかの間、朝飯が終わった頃には止んでいる。結局、田圃に出ざるを得ないのだから百姓泣かせの雨なわけだ。
当時はすべての農作業は手仕事。米という字が八十八と書くように米作りには88の手間がかかる。苗作りのための籾撒きに始まって代掻き、田植え、草取り、稲刈り,乾燥、運搬、脱穀。指の爪先に泥が詰まり、腰が曲がってゆくのがよくわかった。
今では田植えですら機械化されたし、草取りも除草剤のおかげでなくなった。稲刈りも機械だから女たちが田圃に動員されることは殆ど皆無になった。その代わり田圃からは秋田音頭も聞えないし、ちょっとなまめかしい風景もなくなり、用水路からは泥鰌もタニシも姿を消した。
私も秋田の田圃から逃走して55年になった。農作業の手順はすっかり忘れた。学校へ穿いてゆくために独りで編んだ藁沓の編み方も草鞋の編み方も思い出せなくなって久しい。
正月近くなると霜焼が痛いと泣く子供たちの声が近所のあちこちにこだまするように泣いた。あれはビタミンC不足だったという話だ。雪国でみかんは無し。津軽から行商にくる林檎売りも大東亜戦争中は皆無。Cを補う食べ物はなかった。だから手の甲と両足の甲に霜焼の跡が歴然と残っている貧しさの象徴というべきか。
正月がくる。来れば間もなく誕生日。何歳になる?脳梗塞をやり損なって以来70歳以上は考えない事にした。高層マンションとやらで隙間風もない暖かさ。田圃の事も考えなくていい暮らし。毎日が正月みたいなものだから既に正月の感激も緊張もない。
秋田でも正月の感激はなかったから同じことか。それにしても私は今年、入院だけで済んだが、周囲で多くの友人を失った。忘年の晩酌のグラスに逝った友人、ひとり一人の面影を浮かべながら2008年を送ろうとしている。
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