2641 鄭和大艦隊の夢よ、もう一度 古沢襄

このところ中国メデイアに「鄭和艦隊」の言葉がよく出てくる。1987年に就役した中国海軍の練習艦に「鄭和」の名がついた。台湾でも1994年に就役したミサイル・フリゲート艦も「鄭和」。中国艦隊が海賊対策でアフリカのソマリア海域に派遣、出港してから鄭和!鄭和の大合唱が始まった。
陳舜臣さんの「中国傑物伝」にも鄭和が出てくる。・・・十五世紀初頭の鄭和の「大航海」は、まさに人類の壮挙といってよい。「中国傑物伝」の第十三話・鄭和の章の書き出しで、陳舜臣さんは大艦隊の総司令官だった鄭和に最大級の賛辞を贈っている。
・・・それにもかかわらず、私は鄭和がその業績にふさわしい評価を受けていない、という気がしてならない、と陳舜臣さんは続けている。陳舜臣さんがそう言うくらいだから、われわれ日本人の多くは鄭和のことを知らないのは当然かもしれない。
中国人、とくに漢民族は鄭和のことを忘れていたのではないか。中国海軍の関係者の間で語り継がれてきた鄭和が、今、脚光を浴びている。沿岸海軍だった中国海軍が外洋海軍として生まれ変わる・・・それがソマリア沖への艦隊派遣であり、鄭和艦隊の思い入れという形で出てきたといえる。
鄭和(てい・わ Zheng He,1371年-1434年)は、中国明代の武将。永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、南海への七度の大航海の指揮を委ねられた。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。(ウイキペデイア)
陳舜臣さんは「鄭和は少数民族の出身で非漢民族ながら重用され、南海への七度の大航海の指揮を委ねられた。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監漢族。(西方人は)元代には色目人(しきもくじん)と呼ばれたが、ウイグル系であったか、イラン系であったか、あるいはアラブ系であったか、それはよくわからない」と言っている。身の丈が180センチの巨漢だったという。
モンゴルが中国を支配した元代では、西方系の色目人を漢民族の上に置く支配制度をとったという。鄭和の祖先はチンギス・ハーンの西征に、1000の兵を率いて参加して、咸陽王に封じられ、代々雲南省に住んでいたという。
元が滅びて漢民族の明が成立し、鄭和の故郷・雲南省は明軍によって征服された。1382年のことである。12歳の鄭和は明軍に捕えられて、宦官にされてしまった。宦官とは去勢されて男の機能を失った者のことである。
眉目秀麗だった鄭和少年は、南京に連れてこられて後の成祖・永楽帝の藩邸に送られたことが出世の糸口になった。明初、各地に派遣された諸将は捕虜の少年を去勢して、雑役に使う風習があった。さらに去勢された少年の中で、利発な者を皇帝や皇族に献上したという。
永楽帝の下で鄭和は頭角をあらわし、次第に側近中の側近になった。鄭和の姓はもともと「馬」であった。父は馬哈只(マハジ)といったが、哈只はメッカに巡礼した信者に与えられる称号である。永楽帝は馬少年に鄭姓を名乗る様に命じた。姓は鄭、名は和ということである。
29歳から32歳にかけて鄭和は軍事的な指導力を発揮する。永楽帝は歴代の皇帝の中でも対外積極政策を採った人物であった。自ら五回のモンゴル親征を行ったほか、鄭和には西洋遠征の全権を委ねている。
1405年6月、巨船62隻、乗組員二万七八〇〇の大艦隊が中国の上海付近から出港した。巨船は長さ150メートル、幅62メートルで現在の8000トン級の船に相当するという。鄭和は、この大艦隊を率いて東南アジア・インド、一部はメッカやアフリカのマリンディまで到達する大航海をおこなった。
明国の勢威を見せつけ朝貢貿易を促すことに狙いがあったという。この結果「明国に朝貢するもの三十余国に及び・・・」(有高巌「概観東洋通史」)となって貿易が拡大した。
「明史」によれば奢侈を嫌った歴代皇帝の素朴主義によって国庫は充実しており、永楽帝の命によって福建省や江蘇省などの港に造船所が作られ、福建では137隻、江蘇では200隻の船が造られた。鄭和艦隊の船は南京の宝船廠で造られたという。
陳舜臣さんは「この90数年後にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回って、インド航路を発見したが、そのときの旗艦が僅か120トン相当だったことを思えば、鄭和艦隊の巨船は信じられほどであった」と言っている。1957年に南京郊外で鄭和艦隊の巨大な舵が出土している。
まさにヨーロッパの大航海時代を凌ぐ壮挙といえる。鄭和に率いられた大艦隊は1405年から1433年まで七回も大航海が行われている。
①1405年出発、1407年帰国②1407年出発、1409年帰国③1409年出発、1411年帰国④1413年出発、1415年から1416年にかけて帰国⑤1417年出発、1419年から1420年にかけて帰国⑥1421年出発、1423年から1424年にかけて帰国⑦1430年出発、1433年帰国。
しかし永楽帝以降の皇帝にはみるべき人物がいない。さらには鎖国政策をとったうえ、国内では政争が絶えない事態となった。北方では満州族が力を蓄えて、やがて万里の長城を越えて中国に侵入し、明王朝は滅亡する。鄭和大艦隊のことも民衆から忘れ去られてしまう。
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