2660 日本文明のエネルギー (上) 伊勢雅臣

■1.世界最古の土器■
世界最古の土器は、日本で見つかっている。最新の発見では1万6500年前のものだという。それに次ぐのが揚子江中流域で見つかった約1万4千年前のものである。
世界の4大文明、すなわちメソポタミア、エジプト、インド、シナのいずれの文明においても、土器は捧げ物、食べ物を盛り付けるために使われたのだが、日本の土器は煮炊きのために使われていた。時期においても、用途においても、日本の土器は他文明よりも、はるかに進んでいた。
20世紀最大の先史学者と呼ばれるゴードン・チャイルドは、土器の発明を「化学的変化を応用した人類最初の大事件」と見なしている。粘土を焼いて、水に溶けない土器になるという化学的変化を「人類最初の大事件」としたのだが、土器を煮炊きに用いる、とは、その特性を最大限に活用した工夫であった。
さらに粘土は可塑性を持ち、それを焼くことで、自由な造形や模様づけが可能である。撚糸(よりいと)を土器表面に回転させて縄目模様をつけた縄文土器、燃え上がる炎の形状を模した火炎土器など、芸術性の豊かな土器を、われわれの先祖は生み出した。
後のモノづくり大国・日本の遺伝子は、はるか先史時代から発揮されていたようだ。
■2.世界最古の漆器■
漆(うるし)の技術も先史時代から、日本で花開いていた。従来は、揚子江流域の河姆渡(かぼと)遺跡で発見された7千年前の漆工品が最古のものとされていたが、北海道の垣ノ島B遺跡から出土した赤色漆が9千年前の物だと判明した。
上述の土器でも出てきたが、長江(揚子江)文明は漢民族の黄河文明よりも早く開けたもので、その末裔は現在の中国南方の少数民族であり、さらにその一部は台湾から日本に渡ってきたという説がある。いずれにしても黄河文明とは関係がなさそうだ。
約5500年前から1500年間、縄文時代前期から中葉にかけて栄えた青森県の巨大集落跡、三内丸山遺跡では、直径が30センチほどもある見事な漆塗りの皿も出土して、専門家を驚かせた。現代にひけをとらない漆の技術がすでに存在していたのだ。
江戸時代には、オランダが長崎で大量の漆器や磁器を買い付け、ヨーロッパに持ち込むようになった。18世紀のヨーロッパでは、日本の漆器が一大ブームとなり、漆器が「ジャパン」と呼ばれるようになった。日本の漆器は値段が高いために、ヨーロッパで模造品が作られたが、その質においては本物に到底及ばなかった。
■3.「高天原にとどくほど」■
我々の先祖は、土器や漆器というような工芸品ばかりでなく、巨大な建造物についても、世界史に大きな足跡を残している。
前述の三内丸山遺跡では、約100棟もの堀立柱建物が整然と配置されているが、それらは直径2メートル、深さ2メートルの巨大な柱穴に、クリの巨木を立てたもので、柱の高さは 10メートル以上と推定されている。最大の建物は長さが32メートル、床面積が100坪もある。
縄文時代の日本人は毛皮を着て洞穴に住み、狩りをして生活していたというイメージは、すでに過去のものとなっている。
その巨大建造技術がさらに蓄積されて作られたのが、出雲大社であろう。現在の出雲大社本殿は高さ24メートルで、延享元(1744)年に造営されたものだが、平安時代に建てられた本殿は高さ約48メートルであり、さらにそれ以前は約96メートルもあった、と宮司である千家(せんげ)家に代々伝わる『金輪造営図』に記されている。
96メートルというのは事実かどうか分からないが、48メートルの方は物証がある。出雲大社の境内3カ所から巨大な柱が発見されているのである。それぞれの柱は、直径1.35メートルの杉材3本を金輪で締めて一組にしたもので、さしわたし約3メートルもあった。
これらの柱は、『金輪造営図』で記されている図とよく一致しており、また科学分析の結果、宝治(1248)年に造営された本殿跡の可能性が高いとされている。
神話によれば、大国主神(おおくにぬしのかみ)が天津神あまつかみ)に国譲りをした時に、天津神が大国主神の住居を造り、「高天原にとどくほど千木(ちぎ、屋根の上で交叉させた2本の木)を高く聳(そび)えさせる」と約束したという。大国主神を祀る出雲族との平和的統一を実現しようという狙いがあったのだろう。
大国主神を祀ることを命ぜられたのが、天照大神の第二子・天穂日命(あめのほひのみこと)だが、現宮司の千家尊祐氏はその84代の子孫にあたる。ちなみに第一子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の子孫が現在の皇室である。
■4.世界最大の陵墓■
木造建築技術とともに、日本全国に数万基あるといわれる古墳は、古代の土木建築技術の蓄積を物語っている。その最大のものが、大阪府堺市にある仁徳天皇陵である。
全長が486メートル、高さ34メートル、取り囲む二重の濠を含めた総面積は34万5480平米である。秦の始皇帝陵墓の底面積11万5600平米の3倍、エジプト最大のクフ王の大ピラミッドの底面積5万2900平米の6倍以上である。
大林組の試算によれば、土を盛り上げるために10トンのダンプカーで25万台分の土が運ばれたという。1日3千人ほどの労働力で15年8か月もかかったであろうと推定されている。
この古墳の埋葬者とされる仁徳天皇は第16代天皇で、記紀によれば西暦400年前後に崩御された。その記述では、仁徳天皇は次のように語られたという。
そもそも天が君(天皇)を立てるのは、まったく百姓のためなのである。従って君は百姓をもって本とする。それだから、昔の聖王は、一人でも飢えこごえる者があれば、反省して自らの身を責めたのである。
人家のかまどから炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、という有名な逸話も伝わっている。
さらに日本書紀によれば、天皇は河内平野の水害を防ぎ、開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。これが日本最初の大規模土木事業だったとされる。その他にもいくつかの土木事業を行われた。
こうした仁徳天皇の善政は、当時の国民の心を掴んだ。天皇の宮室造営の命が下った時に、こう書かれている。
百姓は、みずから進んで、老人を扶(たす)け、幼児を携えて、材料を運び、簣(き、もっこ)を背負って、昼夜を問わずに、力を尽くして競いつくった。
全国に数万もあるという古墳は、それ自体が日本民族の先祖崇拝の証であろう。そして皇室こそ、民族の宗家であった。天皇陵とされる古墳だけでも80近くあるという。古代の国民は、肉親の情を持って、歴代天皇をお祀りするために、古墳を作り続けてきたのであろう。
秦の始皇帝は中国を統一して初めての皇帝となったのだが、巨大陵墓などの大土木工事によって民衆の反乱を招き、わずか一代で滅んでしまったのとは、まことに対照的である。
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