2666 三回目の経済危機に陥ったロシア 宮崎正弘

伝わらないロシア経済の惨状とプーチン指導力の陰り。プーチン企業「ロフネフツ」「ガスプロム」へ軒並み、公的資金を注入。
ロシアが冷戦終結後、三回目の経済危機に陥っている。
最初は1992-94年のエリツィン政権下での拙速な経済改革。あまりに急激な資本主義化がロシアに未曾有の混乱をもたらし、結局、この時点で荒稼ぎしたのは旧国有企業の株式をまんまと私物化した新興マフィア(「シロビキ」と呼ばれた)だった。
ルーブルは新札発行に踏み切り、旧ルーブル札は2800分の一に減価した(つまり紙くずとなった)。
二回目の危機は1998年。アジア通貨危機が飛び火したわけでもないが、サブプライムの詐欺に酷似するロシア国債投機熱が、ある日突然はじけ、米国ではノーベル経済学賞に輝く金融工学の博士たちのファンドも“マーケットの藻屑”と消えた。
それから十年、ロシアに登場していたのは、新しい成金と旧KGB人脈が強いカネの絆で結ばれた新エリート。
今回の危機は、むろん欧米のサブプライム危機に連動しておきた。
新興成金は軒並み株式損失をかかえ、苦境に陥った。プーチン系の大企業「ロフネフツ」などが経営危機、銀行から資金を注ぎ込んでも追いつけない状態となっている。
第一は原油価格の暴落によるGDP40%という大幅な減少。
第二はガス価格の暴落とアルジェリアなどを巻き込んだ「ガス・カルテル」形成という野望の失敗。
第三はモスクワの株式市場が崩壊寸前となり、昨年一年間で75%下落した。
したがってプーチンが夢見た資源戦略は水泡に帰しつつあり、失業の拡大(140万から、近く220万人の失業に広がりそう。『ユーラシア・ディリー』、1月6日付け)による、プーチン政権への不信感が広がる。
レバダセンター(levada)の世論調査によれば、「ロシアは正しい方向に進んでいる」と回答した国民は昨年九月の40%から、直近では24%にダウン。
つい昨年春までプーチンが豪語していた「モスクワの株式市場を欧米並みの金融センター化する」、「ロシア通貨ルーブルをハード・カレンシーとする」という壮大な目標は、原油価格狂騰時代に現象的に現れた市場の蜃気楼だったのだ。
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頓馬でお人よしな米人マオイストの悲喜劇。『毛沢東に魅せられたアメリカ人 上・下』(S・リッテンバーグ 筑摩書房 1997年)
アメリカ南カロライナ州チャールストンに生まれ、「理想に燃える青年であった」著者は、「第二次大戦中に応召軍人として中国に派遣され、そこで、中国革命の烈火に惹かれ」てしまう。
1945年に「ヒマラヤ連峰を越えて、中国に入っ」てから1980年に中国人妻と「アメリカ行きの飛行機に乗」るまでの間、「中国共産党に入党して、その理想と夢を追い求め、あらゆる困難を乗り越え、長い牢獄生活を送って」までして、「すべてを中国に捧げ」た。だが著者の「夢は、無惨にも、私達を道に迷わせる結果となってしまった」と呟く。
ここでいう「私達」が著者夫婦、子供も含めた著者一家、中国人全体のいずれを指すかは不明だが、著者を「道に迷わせる結果となってしまった」原因は毛沢東その人にある。
1946年10月19日、「人々が道徳的な生活をする所というだけではなく、新中国を鋳造し、新しい世界を作り出す溶鉱炉であると思った」延安で、「私が新聞でみたことのあるあの毛沢東、私がスタンフォード大学で学んだことのある、あの毛沢東」から「あなたの中国語はとても上手だ」と声を掛けられ、「彼の中国の前途に対する見方に敬服し、彼の哲学的ひらめきに感服」した「当時二十五歳」の著者は、「自分がこんなに幸運であることが信じられなかった」。
その瞬間、舞い上がって、毛沢東の虜になってしまう。以来、己を捨て人生のすべてを注ぎ込み、マオイストへの道を一瀉千里。長い悲喜劇の幕開けだ。
たとえば文化大革命勃発直後の1966年10月1日、国慶節の祝賀式典に招待された彼は天安門楼上で毛沢東と言葉を交わし、握手する。
職場の放送事業管理局では保守派と造反派の対立が渦巻き権力闘争の帰趨が定まらなかったが、毛沢東と握手した彼が加担したことで、造反派は一気に攻勢に転ずる。
「圧迫されていた者が権力を握った途端、圧迫する側に変わっ」たということだ。彼は『毛沢東語録』を掲げ、敢然と敵に戦いを挑む。
だが、マオイストとしての高揚した日々は長続きしない。
67年10月になると文革は変質し、毛沢東は四分五裂してしまった国内を団結させるため、人民を「新しい敵と戦わせようとしていた」。皮肉なことに著者は毛沢東に裏切られ、「その新しい敵の一人」とされてしまう。
「一人また一人と、私の外国人の友人達は次第に寄り付かなった。
私と付き合っていると見られるのが、余りにも危険であるからだろう」。彼は「かたくなに自白を拒んでいる頑固なスパイ」と看做され、政治犯を収容する秦城監獄に放り込まれる。
彼に対する入獄命令書には、当時の最高権力機構である「無産階級司令部十六人のメンバー――毛沢東・周恩来・江青を含めて――の署名があった」。
来る日も来る日も厳しい尋問が続くが、時の流れと共に尋問は雑談、雑談は談笑に変わり、ニクソン訪中への感想を求めるようになる。
じつは監獄の外側で時代が大きく変化していたのだ。
林彪が変死を遂げ、ニクソンが訪中し、江青らの入獄を知る。確実に時代は変化していた。1977年11月には「スパイ容疑は成立せず、間違いであった」と告げられ、彼は家族との生活に戻ることを許されたのだ。
やがて著者は「私が抱いてきた理想社会から遠ざかって行く」中国の現実を「どうすることも出来ない自分に、無力感と不甲斐なさを痛感」し、「これ以上中国に留まる意義」を失い、母国に帰っていった。
発端は延安での出会い。結末は中国滞在35年間で獄中生活前後2回計16年間。米中関係の底を流れる愛憎二重奏が聞こえてくるようだ。
(ひいずみ・かつお氏は愛知県立大学教授。華僑研究の第一人者。このコラムは小誌に随時、独占的に掲載されております。いずれ一冊の本にまとまると思います)。
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