<総務省の坂本哲志政務官は5日、同省の仕事始めのあいさつで「年越し派遣村」について触れ、「本当に真面目に働こうとしている人たちが集まっているのかという気もした」と述べた>以上は産経のネット配信記事。
これはまさに正直な気持ちを述べてしまったわけで、正論ではあるものの、「政治家の発言としては、それをいっちゃあ、おしまいよ」といわれかねないだろう。
派遣先から解雇された人たちが気の毒であることはいうまでもない。年末年始のテレビはネットカフェで過ごす人々をクローズアップしていた。
その日の食にも住居にも困っているという人たちがいるのは確かだ。だが、「派遣村」としてそこに依存する権利の主張が高まってくると、政治や行政は戸惑うことになる。
あくまでも応急処置であって、そういう人たちには生活保護などの福祉政策が用意されているのだ。
日本の生活保護はなにせ暴力団に2億円支払うことが可能なほど充実している。国民年金を払い続けても月に6万円ほどにしかならないが、年金をまったく払ってこなくて生活保護を受ければ16万円ぐらいになるらしい。
そうした矛盾はあるのだが、それはそれとして、本当に困窮している人たちを行政が助ける手段は手厚く用意されている。
派遣村に500人集まったとして、その全員に生活保護を適用するぐらいのことは十分に可能だろう。
もうひとつ、別の側面からも冷静な考察が必要だ。派遣労働というのは終身雇用に代わる新しい労働形態として位置づけられていたのではなかったか。
日本では終身雇用が当たり前のように行われてきたが、アメリカでは企業を移り歩くほうが実力を認められることになる。
派遣というのは、ひとつの企業、ひとつの業種に人生をしばられるのではなく、いろいろな仕事をしてみたいという新時代の労働スタイルを反映したものではなかったか。
そこで能力を示し、がんばれば収入増につながり、スキルアップがはかれる。それが派遣であったはずだ。
そこには当然、責任と覚悟がともなう。経済の悪化で思いもかけない事態が現出することも、あらかじめ想定しておかなくてはならない。
企業の内定取り消しで泣いている学生も多いという。いくつかの大学で学生たちと接してきたが、社会に出るための準備期間として大学の4年間を位置づけ、それなりの努力を重ねてきた学生もいることはいるが、大半は就職時期になってばたばたとあわてだすというスタイルが一般的だ。
マスコミを目指したいという学生に「週に1本でいいから論文を書いてみろ」とサジェスチョンしたこともあったが、これがなかなか続かない。
筆者は大学時代、新聞社にはいることしか頭になかったから、新聞OBが主宰している「私塾」のようなところへ毎週通い、文章の添削を受けた。
いまの学生はまず新聞を読まない。それでマスコミの世界へのあこがれだけは持っている。その「甘さ」を早い段階で払拭しないと、とてもではないがビッグ・メディアへの道は遠い。
右肩上がりの時代はとうに終わったのだ。そうした時代背景の中で、自分の人生をどう位置付けていくか。
「派遣村」は人間の生き方そのものを改めて示唆しているようにすら思える。
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