2678 男の道は、金も名誉も他人のこと 加瀬英明

月刊誌『自由』が創刊五十周年の本年二月号で、廃刊となった。私は三十年も前のことになるが、竹山道雄先生のあとを継いで同誌の編集委員会代表を、その後つとめてきた。一つの闘いが終わって、感無量である。最終号の私のコラムを、次のように認めた。
石原萠記先生がこれまで五十年にわたって本誌『自由』を刊行されることによって、混迷が深かった半世紀を通して、正しい言論の炬(たいまつ)を高く掲げられてきたのは、まさに護国の大業そのものだった。
先生が主宰される『情報化社会を考える会』の忘年会で、河上民雄先生が挨拶されて、「五十年の歴史を持つ雑誌は珍しくないが、一人の編集者が五十年にもわたって、雑誌を発行してきた例は知らない」と称えられたが、あらためて五十年という時間の重さについて考えさせられた。
仮に先の敗戦の昭和二十年から五十年を遡れば、明治二十八年になる。この年に日清戦争が終わって、下関で日清講和条約が結ばれた。
私は新宿歌舞伎町の酒肆に、先生のお供をしばしばした。先生はそういう時に、青春時代の歌を吟じられた。先生は『歌謡の変遷にみる天皇制度の変化――明治維新から昭和の終焉まで』(自由社)という労作を、平成十九年に著さられている。
名著である。ページを捲ってゆくと、慶應三年から昭和と呼ばれたあの時代が幕を閉じるまで、一世紀以上にわたる時代精神(ツアイストガイスト)がこもる多くの歌が載っていて、先生の美声が響いてくる。
先生は少年期を二・二六事件を起した、歩兵一聯隊の営舎のわきの、新竜士町で過された。二・二六事件について、「妙に生々しく、心に刻みこまれてそのなかを反乱軍に加わった顔見しりの兵隊さんが『帰順』して、聯隊にかえるトラック上で、ニッコリ笑った。清々しい、そして素朴な顔だった」と述べていられる。
  風は変るが 男の道は
  意地か生命(いのち)か 唯一筋に
  金も名誉も 金も名誉も
  他人(ひと)のこと 他人のこと
  ゴビやオルドス 俺(おい)らの墓場
  亡骸(むくろ)いだいて 春待つ身には
  花もいらない 花もいらない
  名無し草 名無し草
二・二六事件を首謀した将校たちが、「自刃したり死刑になった。ある者は死一等を減ぜられて満蒙に追放された。この『流罪』になった将校の心境を歌った」ものと書かれているが、いつか先生と浅酌したときに口遊まれたのを、聞いたことがあった。
「あきらめにも似た、わびしさにおそわれたとき、ふと口に出てくるのが、満蒙に流罪された将校の歌ったこの歌である。この歌は私の心境といったら、時代錯誤、古くさいと思われるかも知れないが、私にとっては名利を求めず、貧しさにめげず、精魂こめて一つの仕事に夢中になれる『生き甲斐』を追い続けるための心を支えてきた歌である」と述懐されている。
昔から賢人が大欲――遠大な望み――を持つ者は、小さな欲を持たないというが、先生はその一人であってこられた。明治の近代日本を築いた男たちは、自己犠牲を厭わなかった。
私は慶応の出身なので新宿よりも銀座が多かったが、一九七〇年代までは客を求めて流し歩くギターや、アコーディオン弾きがいて、わびしいところが演歌と似合った。酒は人と心を合わせるために交す御神酒(おみき)だった。
演歌には日本民族の情念がこもっていたから、私たちの胸を打った。音楽的にいえば、ペンタトニック――五音音階が使われている。ピアノの黒い鍵盤だけを叩いてゆくと、五音音階になって哀調が大きな特徴だ。
歌にも時代精神が宿っていた。先生が好まれた歌のように、自己否定とひとり彷徨(さまよ)うことを吟じるものが多かった。家族関係から先輩後輩の関係、同じ勤務先といったようにいくつかの集団に一生涯属して、がんじがらめになった人間関係から解放されたい、という願望が現われていたのだろうか。それは勇気がいることだった。
大正から昭和にかけて歌われた「流れ流れて落ちゆく先は 北はシベリア、南はジャワよ」(『流浪の旅』)とか、「行こか戻ろか、オーロラの下で ロシァは北国(きたぐに)果しなく」(『オーロラの唄』)も、「ゴビやオルドス 俺らの墓場」というように、興亜の見果てぬ夢(ロマン)がこもっていた。
ゴビとオルドスは、南モンゴル(モンゴル側呼称、内モンゴルは中国側呼称)高原にひろがっている。私たちは白人が覇権を握った世界において、万丈の気を吐いた唯一つのアジアの民だった。
あの時代の日本人は、大志をいだいていた。そして、自己を否定することが美しいことだった。日本を盛りたててきたのは、一人ひとりの自己犠牲の精神だった。
先生は老いられても、いっそう若々しい精神をもって、私たちにその時々にふさわしい指針を示されてこられた。そして、先生は国際舞台で、日米、日ロ、日中の絆を強めるために活躍されてきたのにもかかわらず、つねに「古くさい」日本人としての矜持を保たれてきた。
人は祖霊と時代霊が交わるところに生きねばならないと、スイス生まれの神智学創始者であるルドルフ・シュタイナーが説いたが、いつもそこに立っていられた。人も国も時代に遅れをとってはならないが、それとともに祖霊を尊ばねばなるまい。
先生に親炙するようになってから、長い。先生はその生きかたから、私たちに勇気と活力を与えて下さってきた。
私はキリスト教徒ではないが、聖書を愛読してきた。先生の生きかたは新約聖書の共観福音書にあるイエスの言葉を思わせると、考えてきた。「わたしが来たのは、人々がいのちを得、それを豊かに持つためです」という、キリストの言葉が記されている。
聖書のなかで、私が好きな句である。イエスがやってきたことによって、人が生命をえて、人が生き生きと生きることができると訴えている。人は眠っていないで、生命力のかぎりにいっぱいに生きろという、血が滾(たぎ)るような響きがある。
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