2730 ドン・オーバードーファーの分析 古沢襄

西側ジャーナリストの中で北朝鮮分析で一番優れた業績を残したのはドン・オーバードーファーではなかろうか。米プリンストン大学卒業。ワシントン・ポスト紙の東京特派員、国務省を担当した外交記者。現在ジョンズ・ホプキンス大学のポール・ニッツェ・スクール(高等国際問題研究所)に在籍している国際ジャーナリストである。
「二つのコリア(THE TWO KOREAS)」はワシントン・ポストを退社後に四年間にわたって四百五十回のインタビューと、米国の情報の自由法に基づいて様々な文献や公文書を当たって書かれた。1997年に米国で出版された本だが、朝鮮半島分断の現代史として今日でも不滅の光を放っている。
日本語版の序文でドン・オーバードーファーは「北朝鮮について私には分からない部分があることを心に銘じている。平壌における政策決定と背後に動く勢力の存在は、世界で例をみないほど徹底した秘密主義の中で不透明のままである」と述べた。
「二つのコリア」は金日成主席の死去と金正日総書記に権力が移行する段階で記述を終えている。1995年1月にドン・オーバードーファーは、ジョージ・ワシントン大学シグール東アジア研究センターが主催する学術研究団四人のメンバーの一人として、一週間にわたって金正日時代になった北朝鮮を見る機会に恵まれた。
三年半前にドン・オーバードーファーは北朝鮮を訪れていた。その時には北朝鮮外務省の担当者は公然と軍将校との摩擦を話していた。また非武装地帯では人民軍の将校が米軍関係者と話す時には、北朝鮮外交官を「ネクタイ組」とけなしていた。どこの国でもある軍部と外務省のありふれた対立だが、見方によれば健康な軋轢といえる。
しかし、三年後に平壌に降り立ったドン・オーバードーファーは軍の存在が目立って多くなったことに驚いている。自動小銃などを持った軍部隊や国内治安部隊が平壌の街通や地方でも多くなっていたという。
1997年、北朝鮮経済が破局的状況を迎えていた時に金正日総書記は最高司令官として、冬季軍事演習の全面実施を命じている。ドン・オーバードーファーは金正日総書記が次第に軍に頼るようになったのを、早くも見てとった。金日成大学のはっきりしない若者たちと違い「全兵士は政治的にもイデオロギー的にも健全であり、その革命的軍事精神は高潔だ」と金正日総書記の言葉を紹介している。
そして1997年2月に北朝鮮の主体(チュチェ)思想の考案者だった要人・黄長燁氏の亡命となった。黄長燁氏は「デモを企てたり、少しでも反政府色を打ち出そうとしたり、指導者の権威を侮蔑する者は、だれでも秘かに銃殺される。・・・知識人の観点からすれば、全国が巨大な監獄と言っても過言ではない」と言った。
ドン・オーバードーファーが黄長燁氏の言葉を借りて描いた北朝鮮の巨大な監獄が、韓国の金大中、盧武鉉親北政権の誕生によって今日まで続いているのは、皮肉な歴史といえる。若いころからドイツのヒトラーに憧れ、独裁者になりたいと思っていた金正日総書記(ドン・オーバードーファー)の退場は、何時のことになるのだろうか。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト

コメント

タイトルとURLをコピーしました