同じ18日に、自民党と民主党の党大会が開かれた。「結党以来の危機」を訴える自民、政権奪取を掲げて意気上がる民主。双方のトーンはだいぶ違ったが、共通するのは「それではこの国の将来像をいったいどういうイメージでとらえているのか」という点が欠落していることにあるように思えた。
一言でいってしまえば、「国家観の喪失」だ。国際社会での日本の存在感はなんとも希薄である。米国のオバマ新政権には、日本の存在など眼中にないかのようなムードが漂う。オバマ新大統領はアジアのカウンターパートとして、日本をいとも簡単に素通りし、中国との間でものごとを決めていこうとしているように映る。
麻生首相の支持率が上がらないのも、なんともいえぬ逼塞(ひっそく)感が横溢(おういつ)しているのも、つまるところ、そこに起因しているのではないか。この国の将来への「漠たる不安」に対する回答を麻生首相も民主党の小沢一郎代表も示し得ていない。
麻生太郎首相には「自由と繁栄の弧」、小沢氏には「日本改造計画」という国家ビジョンがあったはずである。それをこの重要な時期になぜ真正面から打ち出そうとしないのか。
自民党を離党した渡辺喜美氏らによる新グループがどの程度のパワーを持ち得るのかは不明だ。評論家の屋山太郎氏、PHP総合研究所の江口克彦社長がはせ参じたのは驚いたのだが、考えてみれば興味深い。
屋山氏は「官僚主導の打破」、江口氏は「道州制による地域主権」という角度からこの国の将来像を描こうとしている。これは小泉純一郎元首相が掲げた「官から民へ」「国から地方へ」の路線である。
小泉構造改革の帰趨(きすう)には異論も根強いのだが、少なくも「改革」を錦の御旗とし、これが国民的支持を得たのも事実だ。自民党には「集票マシンがずたずたにされた」として、小泉改革の負の側面への愚痴が目立ちすぎはしないか。
100年に1度の経済危機に直面して、景気対策が最大の焦点であることは当然だとしても、打ち出されるもろもろの対策は、目指すべき国家像と直結してこそ説得力を生む。
さらに「ソマリア沖への自衛隊派遣」に象徴される安全保障や国際貢献をめぐる基本政策が試されることになる。これがまさに、世界の中の日本の位置付けに結びつくからだ。
もっとも、米中露が加わっていないクラスター爆弾禁止条約に喜々として外相が署名して、だれもあやしまないというのでは、いまの政治に国家観を求めるのはないものねだりか。(産経連載コラム)
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2753 国家の存在感、どう示す 花岡信昭
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