今、イスラエルなどが恐れるのは、ハマスが叩かれたにもかかわらず、この戦争によってハマスの人気が高まったかもしれないということだ。ガザでのハマスの指導者イスマイル・ハニヤは先週の日曜日に隠れ家から出てくると、「神は我々に大勝を与えたもうた」と宣言した。
戦争でほとんどが損なわれた、と多くのパレスチナ人が言う。イスラエルが主要な交渉相手としているファタハ支持者もそう言う。しかし「誰もがハマスの抵抗を称賛しており、ファタハはそれを支持しなかったと思っている」と、長年のファタハ支持者でありハマス紹介本の著者ベーカー・アブ・ベーカーさえもが言う。
ハマスはそのルーツを「イスラム同胞団」までさかのぼり、1928年にエジプトで設立された。同胞団は、アラブ世界の苦難がイスラム的献身の不足からもたらされているとする。そのスローガンは「イスラム教はあらゆるものを解決する唯一の回答である。コーランは我々の基本であり憲法である」。その哲学は今日、アルジェリアからインドネシアまで現代の、しばしば軍事的・政治的に不寛容のイスラム教を支えている。
イスラエルの1948年の成立の後、原理主義の同胞団は支持者をガザのパレスチナ難民キャンプで募ったものの、当時は世俗主義的な活動家がパレスチナの民族主義運動を支配していた。
その当時のガザはエジプトによって統治されていたが、エジプト大統領ナセルは世俗主義的な民族主義者であり、情け容赦なく同胞団を圧迫した。1967年にイスラエルは6日間戦争で勝利を収め、ナセルは惨敗。イスラエルはガザとヨルダン川西岸を支配した。
「我々全員がびっくりしました」と、パレスチナ人作家でありハマス支持者のアザム・タミミが言う。彼はその時にクウェートの学校に在籍しており、同級生のカリド・マシャール(現在ハマスのダマスカスにおける幹部)にこう言った。「世俗主義のアラブの敗北は原理主義の同胞団の飛躍にとって大きなチャンスだ」
ガザでイスラエルはファタハなど世俗主義的なPLOメンバーを圧迫したものの、エジプトの統治者によって同胞団などイスラム原理主義活動家に押しつけられた規制よりは緩かだった。1964年に結成されたファタハはPLOの中心で、イスラエルに対するハイジャック、爆破、その他の暴力を行使したが、1974年にアラブ諸国はPLOをパレスチナ人の「唯一の合法的な代表」と宣言した。
ヤシン師によってガザに導かれたイスラム同胞団は、公然と彼らのメッセージを広げることができた。いろいろな慈善事業プロジェクトを起こすことに加えて、ヤシン師は、世界的な聖戦(ジハード)を主唱した同胞団のエジプトメンバーでナセル大統領により処刑されたサイッド・クトゥブの作品を再版する資金を得た。クトゥブは、現在の戦闘的・政治的なイスラム原理主義の創立イデオローグのうちの1人とみなされている。
ガザで当時、イスラエル政府の宗教行政を担当していたコーエンは、1970年代中頃に、伝統的なイスラム聖職者からヤシン師について「不穏な報告」を聞き始めたと言う。ヤシン師は族長による正式なイスラム教育を受けていず、信仰より政治に最終的な興味を持っていると警告されたと言う。「彼らはこう言いました、ヤシン師に近づくな、彼は危険人
物だ、と」
ガザでのイスラエル軍主導の支配は(テロには厳しくても宗教には寛容だったため)ヤシン師にとって有利だった。彼は学校、クリニック、図書館、幼稚園の広いネットワークを構築した。
1979年にイスラム教徒グループ、「ムジャマ・アル・イスラミア」という協会を創り、それはイスラエルによって慈善団体として公式に認められた)。イスラエルもイスラム・ガザ大学の設立を支持した。それは現在、ハマス武装組織の温床と見なされ、この大学は最近の戦争でイスラエル軍機に攻撃された最初の目標のうちの1つだった。
1979年当時ガザの統治者であったヨセフ・カステル准将は病床にありコメントは得られなかったが、後任のイツハク・セゲヴ准将は、ヤシン師の政治的な長期の意図または危険については「思いもよらなかった」と言う。
イスラエルのイラン大使館付武官として、彼はイスラムの熱狂が王政を倒すのを見ているが、ガザでは「我々の主な敵はファタハでした」と彼は言う。イスラエルにとってイスラム聖職者は「100%平和的な存在」だった。元当局者によれば、イスラエル自身も当時は「イスラム教の敵」としてはほとんど見られていなかったと言う。
セゲヴ氏はヤシン師と定期的に接触をした。一つには彼から目を離さないためだ。彼はモスクを訪問して、およそ12回、ヤシン師に会った。イスラエル人がPLOと接触することは当時は違法だったが、ヤシン師との面談は問題なかったし、セゲヴ氏は後にヤシン師が病院での治療のためにイスラエルへ行けるように手配さえした。「我々と彼にはなんの問題もありませんでした」と言う。
実際、ヤシン師とイスラエルには共通の敵がいたのだ。過激な世俗主義のパレスチナ活動家である。ハマスの前身であるヤシン師率いるムジャマは、世俗主義者をガザの赤新月社(赤十字のイスラム版)指導部から追い出す試みに失敗すると暴動を起こして赤新月社ビルを襲撃した。イスラム教徒も、酒を売っている店と映画館を襲撃した。イスラエル軍はほとんどそれを傍観するだけだった。
セゲヴ氏は、軍はパレスチナ人同士の喧嘩に関係することを望まなかったと言うが、イスラム教徒が赤新月社の世俗主義的なチーフ(PLOを支えた社会主義者)の家を焼き払うのを防ぐために兵士を行かせた程度の介入だった。
イスラム教徒と世俗主義的な民族主義者との衝突は西岸にまで広がり、1980年代初期、大学キャンパス、特に政治活動が活発だったビルツァイト大学に拡大した。
ビルツァイト大学の学生間の抗争が狂暴化したため、当時ガザの情報将校ハミル・ハラリ准将は、ガザの検問所のイスラエル兵士から連絡を受けた。ビルツァイト大学のファタハとの戦いに加わろうというイスラム活動家を乗せたバスを足止めしているという。「私は以下のように伝えました。『彼らが互いを燃やしたいならば行かせてやれ』」と、ハラリ氏は回想する。
ビルツァイト大学のイスラム教徒のリーダーはその時はマームド・ムスレで、今は2006年の選挙でパレスチナ議会のハマス議員になっている。彼は、イスラエル治安部隊がパレスチナ人同士の抗争をあおって大火にしたと言う。彼は彼自身の陣営とイスラエル人との間にはいかなるなれあいもないと否定するが、「イスラエルは、我々ハマスがPLOに代わるものになることを望んでいたのだ」と語る。
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2786 ハマス育てたのはイスラエル(2) 翻訳:平井修一
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