暖かくなったら水戸にある盲目の右翼・雨宮菊夫氏の墓を詣でようと思う。旧制中学の一年生の頃、この人と一年間起居をともにした。坊主頭の村夫子然とした穏やかな人で、とても赤誠会八紘塾長とは思えなかった。
この人から右翼的な言辞を聞いたことはない。教えられたのは黎明期の清国の素晴らしさと建国した満州族が優れた民族だということであった。当時の日本人はジンギス汗を生んだ蒙古族に人気が集まっている。
日清戦争に勝利した日本は、弁髪の清国人をチャンコロと侮蔑していた。雨宮氏は万里の長城を越えて明国に侵入した満州族には、蒙古族はじめ北方民族が従い、一気に明王朝を滅ぼしたが、その治世は刮目すべきものがあったという。支那史の中で清王朝が一番優れた文化を残している、とまで言い切った。
私が満州族、女真族、高句麗国に関心を持つのは雨宮氏の影響に負うところが大きい。
雨宮氏は一九〇四年、山口県萩で生まれた。”長州っぽ”である。それが旧制水戸高校から東京帝国大学の法学部、さらに大学院を卒業して内務省に入った。一九三一年、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生、翌年に日本の関東軍が中心となって清朝最後の皇帝溥儀を擁立して満州国を建国した。
この事件に雨宮氏は巻き込まれている。一九三二年三月中華民国が国際連盟に提訴、連盟はイギリスのヴィクター・リットン卿を団長とするリットン調査団を満州に派遣している。この調査は三ヶ月にわたったが、当時、二十八歳だった雨宮氏は内務省から関東軍に出向、嘱託としてリットン調査団の応接に当たった。
当時から村夫子然とした雨宮氏は、事あるごとに中華民国の漢族と満州国の女真族の歴史的な違いを説いたというから、リットン調査団も面食らったのだろう。
九月に「国際連盟日支紛争調査委員会報告書」なるリットン報告書が提出された。柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難く、 満洲国は地元住民の自発的な意志による独立とはいえず、その存在自体が日本軍に支えられている・・・としながら、満洲に日本が持つ権益、居住権、商権は尊重されるべきであると玉虫色のものとなっている。
戦後、支那外交史を多少でもかじった私は、清王朝を打倒した中華民国には漢民族優位の思想があって、女真族に対する冷淡さがあった様に思う。だが女真族の末裔が住む満州南部から朝鮮半島北部に対する地政学的な脅威は、共産党政権になって一種の安全保障見地から高まっているのではないか。中国は北朝鮮を決して見捨てないであろう。
話は戻るが、敗戦後の雨宮氏は故郷の山口県萩に戻らず、水戸を終生の地と定めている。そこで晴耕雨読の毎日を送ったが、闇米を買うこと拒絶して栄養失調で盲目となった。本は読めなくなったが、水戸の若い人を集めて談論風発、盲目を気にする様子がなかった。
私が共同通信社の経理局長時代に水戸を訪れ、地元紙のいばらぎ新聞社を訪問した時に雨宮菊夫氏のことを話した。戦前の右翼のことを知る人もいないと思っていたが、後藤社長はじめ幹部が覚えていて、雨宮氏の墓に案内していただいた。
質素な墓標の前に立つと新しい供花の香りが漂い、誰が供えた分からないが、香華が立ちのぼっている。お寺の和尚さんは「誰かが、いつも墓前にお線香を手向けている」と言った。右翼であれ、左翼であれ、自分の信念に従って一生を終えた人の姿は美しい。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト
コメント