二月が短いのはうれしい。平年で二十八日,閏年で二十九日。二月に三十日や三十一日なんていう日がなくて,ほんとによかった。はやく春になれ,と思う。
立春は毎年この月の四日前後におとずれる。暦のうえでは春なのだ。日溜まりには梅も咲きはじめている。“如月[きさらぎ]”とは別に“梅見月”という古い呼び名もある。梅に鶯,そんな絵に描いたような早春の季節をむかえようとしている。
鶯の身を逆[さかさま]に初音かな
これは榎本其角の句。さかんに春の到来を告げてさえずっているうちに枝に逆さまにぶらさがり,それでもなおさえずりつづける鶯を詠んでいる。
鶯の初音というのはしかし,はっきりいってヘタクソで聞くにたえない。それでも,一生懸命にさえずる練習にはげんでいる姿を想像すれば微笑ましい。
想像するしかないのは,野生の鶯がさえずっている姿を実際にぼくはみた経験がないからだ。声に聞くばかりである。ましてや身を逆さまにしてさえずっている姿など……
榎本其角,のちに宝井と姓を改めるこの俳人は一六六一年(寛文一)に生まれ,江戸時代前期から中期にかけて活躍した。いま紹介した句のほかに,まえにつぎのような諸句をとりあげたことがあったのをご記憶の読者もいるだろうが、いずれも代表作ではない。
まな板に小判一枚初鰹
夏の夜は蚊をきずにして五百両
春をまつことのはじめや酉の市
この其角が没したのは,一七〇七年(宝永四)二月三十日のことである。
二月三十日? そんな日があるわけはない――と思われるかもしれない。しかし,旧暦時代には二月に三十日があって,なんの不思議もなかった。
現在の新暦では、二月は二十八日まで。四年に一度の閏年だけ,一日増えて二十九日になる。この二月以外の小の月は三十日まで。四・六・九・十一月の四ヶ月だから,二月を合わせて五ヶ月が小の月,残り七ヶ月が三十一日までの大の月である。
小学生のころ,母親に“西向く士[さむらい]小の月”と教えられた。拳をにぎり,その指の凸凹で大・小を知る方法も教えられた。どちらも簡単に覚えられる方法だった。 ところが,かつての旧暦では月の大・小を前もって覚えるのはむずかしかった。三十日までの大の月と,二十九日までの小の月の配列が毎年異なっていたからだ。
大庭をしろくはく霜師走かな
其角に,こんな句がある。とても“伊達の其角”と呼ばれた人の作とは思えない。大きな庭一面を筆で刷いたように白く霜がおおっている,ああ,とうとう十二月になったのだなという,あまりにありきたりな感慨を詠んだ凡作といっていい。
しかし単純にそう決めつけてしまっては其角が浮かばれない。こんな句をつくった裏には,ある事情があった。
つぎのような前書きがついている。
“大小の吟 元禄十丁丑年”
“大小”とは月の大・小で,元禄十年(一六九七年)丁丑の年の大の月,小の月を吟じわけた句という意味である。
では,“大庭をしろくはく霜師走かな”という句を読解してみよう。
“大庭を”の大は,大の月の意。庭の“に”は二。以下,“しろくはく”が四・六・八・九,“霜”が霜月十一月をあらわしている。“師走”はいうまでもなく十二月。
つまり元禄十年は二・四・六・八・九・十一・十二月の七ヶ月が大の月だというわけである。実際は大の月しか詠みこんでいない。それでも小の月は,残りの一・三・五・七・十月の五ヶ月とわかる。
大の月は三十日,小の月は二十九日。三十日×七ヶ月+二十九日×五ヶ月=三百五十五日。元禄十年とは,そんな年だったのである。
ところで,年表で確かめてみると,意外にもこの年には閏二月があった。其角の大小吟に閏二月は詠みこまれていない。さすがの其角も,五・七・五の限られた字数のなかに,そこまで織りこむのは無理だったのだろう。
しかし,そう思いこんでいたぼくのほうが未熟だったようだ。其角の大小吟を,もう一度よく見てみる。すると,“大庭を”の“大”と“に”は簡単にわかったが,あとの“わを”のあたりが怪しい。ここに,まだなにかが隠されていないか――
もしこれを“二に輪を”と読み解くなら,二月を輪で囲む,つまり閏二月をあらわしていると受けとることができる。この閏二月が大か小かまではわからないけれど……。
閏月についてはあとで触れたいが,とにかく,そう推測したぼくは,ハタと膝を打っていた。其角さん,あなたは偉かった! そして,少しは元禄十年という年が身近に感じられるような気がしてしまったのである。
もちろん,其角ははるか後世の人間のためにこの句をつくったわけではない。元禄九年のすえに来年の暦を手にして,来る年の月の大・小を庶民に伝え,なおかつ覚えやすいようにとひねりだした,なかば実用の句なのである。
このような句は“大小句”と呼ばれた。新暦では二・四・六・九・十一月が小の月と決まっているから無用だが,毎年毎月いちいち暦をみて確認しなければならなかった旧暦時代には重宝したにちがいない。言葉遊びの要素も強いから,興に乗って工夫をこらした大小句をつくっては得々と披露した俳人も多かったようだ。
大・小を図案化した暦もさかんにつくられた。これは矢野憲一さんの『大小暦を読み解く――江戸の機知とユーモア』(二〇〇〇年・大修館書店)という本に詳しいので参照していただきたい。二百点におよぶ図版は眺めているだけでも楽しい。
ただ残念なのは,せっかく其角の大小吟も紹介されていながら詳しい解説がなく,ぼくの推測が正しいのかどうかが解決しなかったことである。
新暦とのもうひとつの大きな違いは,旧暦に閏月があったこと。平年を三百五十四日と定めている旧暦では,十二ヶ月ばかりの年がつづくと実際の季節としだいにズレが生じてくる。だから,三十二,三ヶ月に一度のわりでひと月ふやし,十三ヶ月ある年をつくった。
といっても,十三月という月を設けたのではない。ある月を二度くりかえし,これを閏月と呼んだ。
たとえば,其角の大小句に詠まれた元禄十年には通常の二月のあとにひと月ふやし,これを閏二月と呼んだ。ただ,閏月は二月のあとに設けると決まっていたわけではなかったから大変だった。
新暦では,閏月ではなく,二月に閏日が設けられる年がある。平年は二十八日まで。ただし,西暦が四で割りきれる年は閏日として一日増やし,二十九日間になる。
西暦が四で割りきれるのは四年に一度。四年に一度といえばすぐにオリンピックを連想してしまう。このオリンピックの開催される年が二月に閏日がある閏年にあたっている。
最近の例をあげるなら,一九九六年と二〇〇〇年がそうだ。とくにシドニー・オリンピックの二〇〇〇年は,記念すべき年といっていい。二〇世紀最後の年であるとともに,二〇世紀最後の閏年でもある。
そればかりではない。
じつは,閏年には西暦が四で割りきれても,同時に百で割りきれるなら閏年にしないという例外規定があり,この規定に従えば二〇〇〇年は通常の二十八日まで。ところが,もうひとつ,四百でも割りきれるなら閏年とするという例外中の例外を設けた規定もあり,これによって二〇〇〇年は閏年になる。つまり四百年に一度のめずらしい年にあたっているのである。
其角からは離れてしまうようだが,この際だからもう少し暦について触れておこう。 現在ぼくたちが使っている暦は太陽暦で,新暦とも呼ばれる。新暦に対する旧暦は陰暦で,正確には太陰太陽暦という。太陰は月をあらわし,月の運行による満ち欠けの周期的な変化を規準として定めた太陰暦に太陽暦の要素をとりいれて合理的にしたものが太陰太陽暦と呼ばれている。
面倒なので以下,太陰太陽暦を旧暦,太陽暦を新暦と表記しよう。日本で新暦は一八七二年(明治五)の旧暦十一月九日に採用が決定された。実施は翌月の三日のこと。維新政府は旧暦の明治五年十二月三日をもって新暦の明治六年一月一日としたのである。
この本でとりあげた人物のなかでは樋口一葉と岡本綺堂が,この歴史的な改暦の年に生まれている。
維新の開国以来,改暦の必要はしばしば唱えられていた。外交上,暦の違いはわずらわしくてしようがない。そのうえ,日本はやはり遅れた国だという印象を強めてしまう。 庶民も,そういう実情は知っていた。ところが,実際の改暦決定にいたる作業は政府上層部で極秘裏におこなわれ,突然に新暦への切り換えが告知された。日本人の多くは戸惑った。
それはそうだろう,月の運行をもとにした旧暦は,西暦六〇三年(推古天皇十二年)からとしても,その間に何度も改訂はあったとしても,じつに千二百七十年間の長きにわたって延々とおこなわれてきたのだから。
そのうえ年末という切り換え時期も悪かった。
来る年の旧暦のカレンダーもすでにおおかた刷り上がっていただろう。予定されていた来年の行事はすべてひと月くりあがり,それまでの時間が短縮されることになった。師走は二日間しかなくなり,旧暦十二月三日から三十一日のあいだに予定されていた行事もすべておこなえなくなった。
それでも,多少の混乱はありながら体制を揺るがすような大きな反撥はなく,思いのほかすんなりと改暦が行き渡ったようにみえる。いまから考えると驚くしかない。“なにごとも御一新の世の中,これが文明開化さ”というわけだろう。
一時の混乱は,たしかに収まった。しかし,ひとつだけ,ひょっとしたら改暦まえにはだれも考えなかったかもしれない問題が残ることになった。
新暦の採用によって月の大・小は固定され,そのぶん煩雑さは解決した。同時に二月だけが二十八日間に短縮された。四年に一度(西暦が百で割りきれる年という例外を別にすれば)閏年に二十九日はやってくる。ところが,二月三十日という日だけは,ふたたびめぐりくる機会が永遠に失われてしまったのである。
さて,ここで其角のことを思いだしていただきたい。
くどいようだが,彼は旧暦二月三十日に死んだ。
いや,二十九日だったという説もある。旧暦時代にも二月が小の月にあたって三十日の存在しない年があったから,そういう年は一日くりあげて二十九日に回向していたのが二説に分かれた理由だろうと勝手にぼくは推測しているけれど,それはさておく。
新暦が採用され,真新しいカレンダーをながめながら其角の魂は仰天のあまり,思わずつぶやいたかもしれない。
「わしの命日をどうしてくれるんだ……」
没年の一七〇七年(宝永四)から数えて百六十五年めの春に味わった悲運である。
其角ばかりではない。改暦されるまでに二月三十日に死んだあまたの人間の魂を鎮める祥月命日を,いったいどうするか。
・閏年は一日くりあげて二十九日とし,平年は二日くりあげて二十八日とする
・逆に三月一日にくりのべる
・あるいは新暦に換算する
選択肢はいくつかあり,関係者も頭を悩ましただろう。鶯の初音に春の訪れをことほいでばかりもいられない日々を過ごしたかもしれない。(杜父魚文庫より)
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