三月は終わりの月である。
新暦では長かった冬がやっと去ってゆく月。陰暦では三春のうちの季春(晩春)で,春の終わり。
なにかが終わる,あるいは,なにかを終えるということには感慨がともなう。その感慨は,しばしば言葉となってあらわれる。
“辞す”という言葉には堅苦しい響きがあるけれども,もともとは素朴な感慨を表現したいという意識が根底にあるはずだ。“辞”には“ことば”の意味があり,文章のことをもさす。“辞す”は“断わる”こと,“辞める”こと。あらためて挨拶を述べ,いとまごいをすることで,辞去や辞別という熟語がある。
同じ用法には聞き慣れない辞塵などという言葉もあって,これは俗塵を去って隠遁すること。辞職や辞表という,宮仕えの人にとっては重い意味をもつ用法もある。
幸か不幸か,いままで辞職・辞表などとは縁が遠かったけれど長引く不況下で明日はどうなるかわからない,一寸先は闇――こんな感慨を実感として抱いている向きも多いのではないだろうか。
勤め人ばかりではない。自営業者でもフリーランスでも,経済生活上の不安は同じだ。むしろ自分で仕事をもっている人間のほうが,自由という名の不安定さを身にしみて感じているかもしれない。
仕事ばかりではない。いくら平均寿命が延びたとはいえ,だれにも,この世そのものから辞すときが必ずいつかやってくる。隠遁を意味した辞塵にも,転じて“死ぬ”という意味がある。要するに,この世のすべての生き物に関係のある言葉,それが“辞す”なのだ。
辞世というものがある。前もって,あるいは,いまわのきわに遺す,この世を去るについての挨拶の歌や句や言葉だ。
この辞世には若いころからなんとない憧れがあった。
ひとつ自分も気の利いた辞世を遺して死にたいものだ,さて他人はどんな辞世を遺しているのだろう――そう思って古今の名辞世とされる文言を集めた本を開いてみると,あまり上出来のものはない。それが正直な感想である。
人間,できるなら土壇場でジタバタしたくない。みっともない最期は人目にさらしたくないのが本心だから,辞世も知名人になればなるほど前もって準備しておくのかもしれない。それにしては深刻すぎたり怨みがましいものが多い。どうしたことだろう。
かつて学問や文芸,経済や政治活動などさまざまな分野で業績をあげる才能に恵まれ,世にひろく知られた人物でさえそうなのだ。自分のような凡夫には,それを凌駕するのはいわずもがな,気の利いた辞世など遺せるはずはないと,まったく絶望的になってしまう。
好きな辞世のひとつに,幕末の侠客だった新門辰五郎(一八〇〇~一八七五)の歌がある。ぼくのこの一連の文章にもふさわしい。
思ひおく まぐろの刺身 はつがつを
ふつくり○○に どぶろくの味
歌中の○○には,まじめな読者にはばかりの多い単語が入る。適当な文字を想像していただきたい。
思いが残ると歌いだして一見うらみがましいようだが,その執心の対象となっているものの意外さが辞世としてはおもしろく,逆に大往生を感じさせている。
在原業平(八二五~八八〇)の辞世と伝えられる歌も,ある意味で捨てがたい。これは多くの人が知っているだろう。
つひに行く道とはかねて聞きしかど
昨日今日とは思はざりしを
『古今和歌集』に収められたこの歌の前書きは,“やまひして弱くなりにける時,詠める”。
『伊勢物語』の最終段(百二十五段)は,“むかし,男,わずらひて,心地死ぬべくおぼえければ”という前文と,この歌だけで成り立っている。
はっきりいって平凡である。あの好色一代男のイメージでも語りつがれた貴公子業平にして,この程度の辞世しか発することができなかったのかと落胆の念にもとらわれる。しかし逆に,その坦々とした慨嘆を正直に吐露して,どんなに波瀾に富んだ生涯を送った人間であれ,最期の感懐とは案外こんな平凡なところに落ちつくのがほんとうかもしれない,そう思わせる真実味があるともいえよう。たとえこの辞世が業平伝説を締めくくるフィクションだったとしても,である。
“人,天地の間に生きるは白駒[はつく]の郤[げき]を過ぎるがごとく,忽然[こつぜん]たるのみ。”
これは辞世ではない。『荘子』にある言葉だ。
荘子は紀元前三六五年に生まれ紀元前二九〇年に死んだ。七十五歳という,当時としては長寿を保った人にしてこの言がある。
念のためと思って,この言葉をある辞書にあたってみた。すると,隙間という意味の“郤”という字を,却という字の異字体である“卻”に誤っている。
「著名な辞書に誤植発見! やった!!」
そう小躍りしたのもつかのま,すぐに興奮は冷める。あの世への旅立ちという人生上の大問題を云々しているまえでは,じつに些細な,くだらない発見にすぎなかった。
まさしく“人,天地の間に生きるは白駒の郤を過ぎるがごとく,忽然たるのみ”なのだ。小事も大事もひっくるめて,白馬が板壁の隙間の向こうがわを一瞬のうちに駆けぬけてゆくように時は過ぎてゆく。つまらない誤植などにかかわりあっているヒマはなかった。その荘子は,どんな言葉を遺して死んだのだろう。弟子たちが盛大に葬式をあげ,立派な墓をつくろうとしていることを知った荘子は病床で告げたという。
「遺骸は山野に捨てよ。天地を棺桶とし,日月星辰を霊前の供物とせよ」
現代では亡骸を自然のなかに放置することはできない。だから,
「焼いた遺灰や遺骨を海や山に撒き,墓もいらない」
ぼくの遺言には荘子をまねてそう記しておきたい。
ここで,この本にとりあげた人物たちの辞世を一覧してみよう。俳句・短歌・言葉と,かたちはさまざまである。
山上憶良(六六〇~七三三),七十四歳で病死。
――士[おのこ]やも空しかるべき万代[よろずよ]に
語り継ぐべき名は立てずして
与謝蕪村(一七一六~一七八三),六十八歳で病死。
――白梅に明くる夜ばかりとなりにけり
柄井川柳(一七一八~一七九〇),享年七十三。川ばたの柳に川柳の発展を託して辞世とした。
――木枯らしや跡で芽をふけ川柳[かわやなぎ]
小林一茶(一七六三~一八二七)は六十五歳で中風に倒れた。産湯の盥[たらい]から死体を拭く湯灌の盥までの生涯を詠いこんだ辞世の句は偽作ともされる。
――盥から盥へうつるちんぷんかんぷん
新島襄(一八四三~一八九〇),四十八歳のときキリスト者・教育者としての事業を中途に腹膜炎のため倒れた。
――天を怨まず,人を咎めず
樋口一葉(一八七二~一八九六)は数えの二十五歳という若さで,長兄と同じ結核に倒れた。その前書きと辞世句。
――身はもと江湖の一扁舟,みずから一葉となのって,芦の葉のあやうきをしるといえども,波静かにしては釣魚自然のたのしみをわするるあたわず。よしや海龍王のいかりにふれて,狂うらん,たちまち,それも何かは,
さりとはの浮世は三分[ぶ]五里霧中
正岡子規(一八六七~一九〇二)の“絶筆三句”から一句。
――糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
夏目漱石(一八六七~一九一六)は胃潰瘍のため四十九歳で死んだ。死の床で苦しみながら着ているものの胸をはだけて言ったという。
――水をかけてくれ,死ぬと困るから。
野村胡堂(一八八二~一九六三)が肺炎のため八十歳で病死するまぎわに発した言葉。
――思い残すことはない。満足だ。
石川啄木(一八八六~一九一二)には辞世の歌はないようだが,死の二日前に病床を見舞った友人若山牧水に語ったという言葉が悲痛で印象ぶかい。
――若山君,僕はまだ助かる命を金のないために自ら殺すのだ。見たまえ,そこにあ
る薬がこの二,三日来断えているが,この薬を買う金さえあったら僕はいますぐ元気を恢復するのだ。
森鴎外(一八六二~一九二二)は萎縮腎のため六十歳で死んだ。“死は一切を打ち切る重大事件なり。いかなる官憲威力といえども,これに反抗することを得ずと信ず。余は石見人森林太郎として死せんと欲す云々”という堂々たる遺書を筆記させたのが死の三日まえ。ところが,絶命する直前になって,ひとことつぶやいたらしい。いろいろな意味に受けとれる。
――馬鹿ばかしい。
内田百間(一八八九~一九七一)は八十一歳で老衰死を遂げた。死の床で夫人に告げた言葉。
――なにがあっても取り乱しちゃいけないよ。
久保田万太郎(一八八九~一九六三)には辞世の句も最期の言葉もない。急性窒息死という不慮の死因のためだが,その五ヶ月まえに最愛の人に先立たれて孤独な刻を過ごすうちに生まれた絶唱をかかげておく。
――湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
芥川龍之介(一八九二~一九二七)が自殺にさいして色紙にしたためた旧作“自嘲”の句。なにかに打ちひしがれたような重苦しさがただよっている。
――水洟[みずばな]や鼻の先だけ暮れ残る
太宰治(一九〇九~一九四八)が情死をまえにして短冊に書きつけたのは伊藤左千夫の短歌だった。辞世かどうか不明だが。
――池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる
そして芭蕉(一六四四~一六九四)の“病中吟”。
――旅に病[やん]で夢は枯野をかけ廻[めぐ]る
藤堂藩の伊賀上野に生まれ,十九歳ごろから藤堂良忠に仕えた松尾忠右衛門宗房は,二十三歳のときに良忠が病死し,その弟が跡を継いだので居づらくなり,みずから藤堂家を辞した。
失業した宗房は,家督を継いだ兄のもとで部屋住みの身となる。そして,その悶々とした生活から抜けだすべく,武士を廃業して江戸に移り,俳諧の道をつきすすむ決意を固める。ときに二十九歳。
この宗房が,のちの俳聖芭蕉である。
それから十七年後,芭蕉は東北・北陸への長い旅に発つ。
草の戸も住み替る代[よ]ぞひなの家
『おくのほそ道』に出てくる最初の句として知られる。
旅立ちをまえに,芭蕉は路銀を捻出するため隅田川畔の草庵を人に売った。その人には小さな女の子がいた。だから,この草庵にもお雛さまが飾られることがあるかもしれないと芭蕉は想像しているのだろう。
そう受けとれば一面ほほえましい。
しかし,育ちざかりの少女のお雛さまが飾られるかもしれない草庵とは,ほんとうなら旅からもどった自分が帰るべきはずのところ。それを売りはらってしまった。道祖神の招きに誘われるように出発しようとする芭蕉は,路銀とひきかえに家を失ったのだ。
しかも,立ち去ろうとする自分は,すでに老境にある。その対照のなかで,白駒が郤を過ぎるがごとき人生忽然の感に襲われたにちがいない。
“草の戸も住み替る代ぞひなの家”は旅立ちの歌,江戸・深川を辞する句だが,そういう場面で人生忽然の感のような厄介な想念にとらわれてしまったなら愕然として底なしの感傷におちいっても不思議ではない。だが,芭蕉には愕然などとという顎がはずれたような締まりのなさも,甘いセンチメンタリズムのにおいも,まったくない。
“月日は百代の過客にして,行きかう年もまた旅人なり”
旅に生き,旅に死ぬことを願った芭蕉にして,はじめて発しえた名言だ。たとえそこに老いと迫りくる死の影とがダブってみえるとしても,いや,逆に老いと死の影とがひたひたと近づいてくる足音がはっきり聞こえるからこそ芭蕉は,一切の感傷を排して旅路につくのである。
芭蕉は風狂の人である。ぼくはすでにそう書いた。風流というぬるま湯のような趣向を超え,屹立する厳しい一境地である風狂に生きようとする人間に必要とされる資質のひとつは,冷静さである。透徹した精神といいかえてもいい。
奥羽・北陸への旅立ちは“弥生も末の七日”だった。一六八九年(元禄二)のことで,旧暦三月二十七日である。新暦の三月はまだ寒さがきついが,芭蕉が旅立った日は太陽暦の五月十六日にあたる。
弥生は“いやおい”の転,若草がすくすくと生長するさまを指している。若い芽は雪の下からでも伸びてくる。旧暦弥生になればもう,刈っても刈っても伸びてきて生い茂る。要するに,四十六歳の芭蕉は陽気が暖かく安定するのを待って北への旅路についた。そこには慎重な配慮,周到な計画があった。
現状を辞して出発した『おくのほそ道』への旅,数々の名句はその結果生まれた。
いきいきと三月生まる雲の奥
これは新暦の三月,現代の俳人飯田龍太の句である。
三月は終わりの月――そう冒頭に書いた。けれども,ほんとうは四月以上に新鮮な月だ。心臓がバクバクするほどに――
なにかが終わらなければ,なにかを終えなければ,なにも始まらない。終わりのうちに,新たな芽生えがある。死さえ新たな芽生え,大いなる旅立ちなのかもしれない。(杜父魚文庫より)
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2802 弥生に辞す 吉田仁

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