初秋を代表する味覚のひとつに梨がある。残暑に渇いた喉をうるおすには恰好の果物だ。
梨むくや甘き雫の刃を垂るゝ
一九〇二年(明治三十五)の秋九月十九日,結核のため三十五歳で死んだ正岡子規の作である。旬を得た果肉のさわやかな甘味,芳香が口いっぱいに満ちてくるように,みずみずしい。
子規にとって果物は,単に好物という以上の存在だった。日記体の随筆『松蘿玉液』に子規は書いている。
“われこの夏頃よりわけて菓物を貪り物書かんとすれば必ずこれを食う。書きさして倦めばまたこれを食う。食えば則ち心すずしく気勇む。気勇めば則ち想湧き筆飛ぶ。吾れ力を菓物に借ること多し。”(一八九六年十二月二十八日「菓物」の項)
果物はかつて水菓子と呼ばれた。子規は“菓物”と書いている。この“菓物”が病魔にとりつかれた子規にとって生き延びるためのエネルギー源だったのである。死の前年に書き起こされた病床録『仰臥漫録』にも,盛んに梨そのほかの果物を食べた事実が記録されている。
行く我にとゞまる汝(なれ)に秋二つ
“漱石に別る”と前書きされた子規の句。
子規と夏目漱石との交遊は,ふたりが第一高等中学の本科に進んだ一八八八年(明治二十一)の翌年に始まる。
八八年に最初の喀血をみた後の子規こと正岡昇は,八九年に手書きの文集『七草集』を後の漱石,夏目金之助に呈している。夏目もその評を書き送り,末尾にはじめて漱石と署名した。漱石とは,もともと子規の使っていた号のひとつで,それを譲ったのだという説もある。
その年五月九日,正岡はふたたび喀血して肺病と診断される。翌十日,
卯の花の散るまで鳴くか子規
などホトトギスの句を五十句ほどつくり,以後,子規と号するようになる。子規と漱石――近代文学に重きをなすふたつの名がこうして生まれた。
しかし,子規という号ほど肺結核の文学者にふさわしいものはない。ホトトギスは鳴くときに口中の紅色が鮮やかに現われ,鳴き声も血を吐いて苦しんでいるかのように聞きなされるという。
ちなみに,漱石はこのとき見舞いの手紙を送り,その末尾に,
帰ろふと泣かずに笑へ時鳥
ほか一句を記している。これが漱石のもっとも古い句とされ,以後おおいに句作しては子規の批正をあおぐことになる。
漱石が子規の高弟・高浜虚子の主宰する俳誌『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表し,小説家として華々しくデビューするのは一九〇五年(明治三十八)のこと。それまでは俳人漱石だったといっていい。
一八九五年(明治二十八),子規は従軍記者として日清戦争におもむく。その無理が祟って帰路の船中で喀血し,神戸に上陸。生死の境いをさまよったのち,八月末に松山へ帰省する。
折しも松山中学には漱石が英語の教師として赴任していた。子規はその下宿――漱石が“愚陀仏庵”と名づけた下宿へころがりこんで秋の二ヶ月ほどをともに過ごす。体の弱っていた子規が一階,漱石が二階だった。
その愚陀仏庵を辞して帰京するさいに子規の詠んだのが,前掲の“行く我にとゞまる汝に秋二つ”という句なのである。
ところで,漱石に梨を詠みこんだ句があるかと探したがみつからない。その代わり,一九〇八年九月から「朝日新聞」に連載した「三四郎」のなかに,こんな一節を見出した。
日露戦争後の九月,三四郎が大学へ入るために福岡から上京する汽車のなかで広田先生と隣りあう。水蜜桃を買って“無闇に食べ”ていた広田先生は,三四郎にもすすめながらこんなことをいいだすのである。
“子規は果物が大変好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分などは到底子規の真似は出来ない。(中略)三四郎は笑って聞いていた。けれども子規の話だけには興味がある様な気がした。”
柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
子規の柿好きは有名な話である。「三四郎」は小説だが樽柿十六個というのは事実のようで,その健啖ぶりには驚くほかない。
漱石は“正岡の食い意地”とくちさがない。けれど,子規の生命を支えたものの重要なひとつにその健啖ぶりがあり,また咀嚼の丹念さがあった。
病勢の悪化につれて背中や尻が腐り,穴があく。膿みが出る。歯茎も膿み,それを何度も何度も指で押し出しながら,なお梨の芯まで噛み砕いては汁を吸う。その凄まじさは,志なかばにして尽きようとする生への執念なのだろう。
志なかば?
だが近代俳句の創始,短歌革新といった子規の文学活動や一個の人間としての生き方には,つねに旬の果物のもつ充実があった。子規自身が一個の果実だった。腐った肉体のうちに,みずみずしい精神が最期まで躍動していた。そのみずみずしい精神は作品として永遠に残っている。
“梨むくや甘き雫の刃を垂るゝ”という何気ない句からも,その事実は充分にうかがい知ることができるのである。(杜父魚文庫より)
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2832 子規と漱石,秋ふたつ 吉田仁

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