2834 私的な池の平小屋備忘録(2008年 1) 菊池今朝和

この地にはじめて足を踏み入れたのは1980年であった。阿曽原から早月尾根に向う途次。二度目は1989年、前回と同様に9月であった。岩手県出身の政治家後藤新平の息の掛かった、岡山出身の耳鼻咽喉科医岸一太が開発した小黒部鉱山(輝水鉛鉱・モリブデン、飛行機のエンジンの強度アップのための添加剤として使用)の調査のためであった。
管理人の田中正雄さんに、坑口の位置などを聞こうとしたが、時間が足りないので翌年に来てくれたら案内する、と確約を頂いた。翌、1990年7月、来て見ると小屋は倒れ掛かり、管理人の田中さんは病に倒れ不在だった。倒壊を防ぐための措置をして下山し、再び9月に上がり冬への備えをした。
しかし、春になると大屋根が小黒部谷に落下しているのをマスコミにより報道された。1991年9月、田中さん齢61歳で黄泉の国に旅たった。
同年9月末、私より1歳年上の小屋主、米澤直昭さん(昭和19年生)と田中さんの回向と現状確認のために廃墟となった、池の平を訪れた。米澤さんは20数年ぶりの登山とか言っていたと記憶している。小屋の庭にテントを張り、寒さに震えながら酒を飲み、米澤さんに池の平小屋の再建を口説かれ、再建策を練った。
宇奈月町の初代町長で、祖父に当る米澤幸作氏が手掛け(昭和26年より)、三代に渡り営んできた池の平小屋を自分の代で潰したくない、そして、なによりも米澤さんにとって剱岳は青春の山であり、池の平小屋は愛着ある、思い出のカオスであった。
この年は米澤さんにとって正念場となったが、私にとっても、人生を大きく左右する基点となった。その後、年1~2回の池の平詣では、私の大事な仕事となった。1992年夏、金槌と鋸一丁で4畳一間の仮小屋1棟を建てた(菊池ハウス、5名収容)。
1994年本職の大工さん(棟梁は群馬の金井さん)により宿泊棟完成し、翌年から、宇都宮出身の新井眞次さん戦後二代目の管理人に就任した。その新井さんも、10年間池の平小屋を守り、2005年池の平小屋を去った。
管理人不在の2006年は、私にとってはこれまでの関りを試されているような気がした。まだ会社勤めをしていたが、40日あった年休は、全部池の平詣でに使った。とくに、宿泊客が多く、また小屋締めという大事な仕事が山積する10月は、会社を首の覚悟で2週間強入山した。
2007年初、このままでは池の平小屋は護れないと、不安もあったが退職を決意した。職制の慰留もあったが、妻の理解も得られたので退職を実行した。貧しい家計もあり、入山ぎりぎりの6月一杯まで高熱の三交代現場で働いた。
2007年は私に試練を与えるように、悲しいことが多発した。池の平小屋支援組織「モンロー会」で一番の有能な働き手であり、私にとって弟のごとき存在で、私の後釜にと期待していた小野正史さんが、三月に私と同じ製鉄会社で作業中にベルトコンベアーに巻き込まれ即死した(享年55歳。今年1月はじめ、彼の上司が、安全配慮義務違反で労働基準監督署により書類送検された)。
さらに、7月の小屋明け作業中に、岩手奥州市に住む、父代わり的存在の伯父が病死した。
初年度は、知人達が沢山訪れてくれ、営業的には大成功で、前年度の倍以上の成果があった。が、下山してみると、たった4カ月の間に製鐵会社の元同僚3名が癌で亡くなり、高校の先輩の、釜石市長も病死していた。このようなことが続くと人生なにがあるか分からないから、後悔しないためにも、今という時を大切にしなければと自戒を強めるようになった。
さて、2008年の小屋の運営は、昨年に続き、いかにお客さんに快適に楽しく泊まっていただくか、アメニティ最重視で運営に当ることにした。昨年は、食事は安易にカレーでお茶を濁さず、おかず6品をコンスタントに提供し、カレーは1回だけだった。
また、壁紙を張り食堂を明るくした。さらに、お客さまから頂いた賀状の展示「少し遅めの賀状展」でお客さんを和ませ、図書の充実も図った。そして、懸案の木造トイレをほぼ3か月かけ、ボランテァの素人集団で作った(和式と洋式各1)。登山者に喜んでいただくための、アメニティの充実のためには、今年もやる事が沢山あった。(続く)
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