問題は、この巨大な失業者の群れがいつ暴動を起こすか、だ。広東省に不穏な空気、はやくも職探しが絶望的に・・・。
ケイス・ブラッドシール記者が広東を取材し、こう書いた(『インタナショナル・ヘラルド・トリビューン』、2月7日付け)。
広東省だけで970万人の出稼ぎ労働者がいるが、旧正月明けですでに300万人が帰ってきた。職がない。工場は閉鎖されている。
問題は幾つかあるが、第一に当該工場は永遠に閉鎖(倒産)なのか、それとも対米輸出回復までの一時的閉鎖なのか。そして失業者がすでに街に溢れており、不穏な空気が蔓延しているが、いつ大規模な暴動に発展するか?」。
当局が正式に認めた失業者数は2000万人である。筆者の推定は現時点で、4100万人。
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(読者の声1)私は東京生まれの東京育ちですが、福島県に移り住んで、東京ではほとんど聞くことのない「言い伝え」に興味を覚えました。
戊辰戦争における薩長軍や明治政府への恨み辛みのことですが、その怨念の深さは、2007年4月の安部晋三首相(当時)が会津若松市を訪れた際の「先輩がご迷惑をおかけしたことをおわびしなければいけない」という言葉にも関わらず、萩市(旧長州藩城下町)からの姉妹都市提案に未だ応じようとしないことからも察せられます。
戦死者の遺体の埋葬さえ許されなかったことの恨み、維新以降も会津出身者は長州閥の高官から登用を妨害されたことの辛み(長州閥は山県有朋から安部晋三まで連綿と続いている!)、そして何よりも孝明天皇がご宸翰(天皇直筆の書簡・会津若松市所蔵)を授けてまでその忠義を讃えた松平容保が「朝敵」とされた屈辱といったものが怨念となって今日に伝えられているようです。
しかし長州もまた二度にわたる長州征伐による怨念があるはずで、両者の怨念のどこに違いがあるのでしょうか。
恐らく「死者の埋葬を禁じた」一点、つまり幕府側の武士道と新政府側の朱子学との違いではなかったかと思います。
日本の伝統では死者を差別したり、むち打つことはしません。
逆に恨みを持って死んだ人は、万葉の昔から、特に丁重に葬ることによってその怨念を鎮めようとしてきました。
新政府軍は会津でこれを禁じた。幕府の脱走兵が乗り込んだ咸臨丸を清水湊で襲った官軍も死体を海に投じ、浜に漂着した死体の埋葬を禁じました。「死ねば仏だ。仏に官軍も徳川もない」といってこれを巴川畔の向島に埋葬したのが街道一の大親分、清水の次郎長というのは講談でもおなじみの美談。
「朝敵は死んでも朝敵」という考えは明らかに日本的でなく、その源流をたどれば、南宋の英雄である嶽飛を反逆罪に問い謀殺した宰相秦檜夫婦の像に今でも唾を吐きかけ続ける儒教原理主義に行き着きます。
それを日本に伝えたのが徳川光圀の知遇を得た朱舜水であり、水戸学から現人神が生まれた詳しい経緯は山本七平が「現人神の創作者たち」で明らかにしています。
「会津の怨念を消すには、白虎隊を靖国神社に祀るしかないだろう」と私は言うのですが意外と賛同者は少ないです。そうすることによって靖国神社も、「国家」神道の汚名をそそぐことができると思うのですが・・・。
A級戦犯合祀問題など吹っ飛びます。しかもこれに反対する人はいないでしょうし、「新撰組も一緒に」の声も上がるかも知れません。
翻って東京大空襲で焼け野原と化した下町で育った私が、その惨事について「言い伝え」をほとんど耳にしなかったのは、今にして思えば誠に不思議と言わなければなりません。死者10万人、被災者300万人の悲劇が、その焼け跡で遊ぶ子供たちに[言い伝え]られず、原爆のような記念日もなければ慰霊祭もない。
私の親を含め、当時の東京都(府?)民がアメリカに対して怨念を抱かなかったのか、会津の怨念に接して、大きな疑問をもった次第です。とても[閉ざされた言語空間]だけでは説明し切れません。(S.K老)
(宮崎正弘のコメント)徳川光圀が朱舜水から教わったことがもう一つあります。餃子です。日本で最初の餃子は徳川光圀が食したそうです。
さて過日、鹿児島でちょっと時間があったので、十年ぶりに西郷さんのお墓に詣でました(南州神社)。ボランティアのガイドがいて、観光客に誰彼となく説明していました。西郷さんのまわりを囲む墓々は、西南戦争の布陣そのものですが、四つほど隣に「戊申のおり、十九歳にして白河口をぬいた男」と言う。なるほど、鹿児島史観からみればそうです。すかさず小生、「あ、会津の仇か」と口走ってしまいました(苦笑)。
畏友・中村彰彦は会津武士の悲しき物語を量産しましたが、デビュー作は戊申の恨みを晴らすために西南戦争で夥しく警視庁入りして九州へ出かけた旧会津武士の生き様を書いた『鬼官兵衛烈風録』、また『松平容保は朝敵ではなかった』という作品もあります。
二十年ほど前、萩との姉妹都市締結を公約に再選に臨んだ会津若松の早川市長は落選しました。いまの白虎隊記念館の館長です。
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2848 4100万人の失業者 宮崎正弘

コメント
私も別の意味で幕末の長州には恨みがあります。一人称の「僕」や敬称の「君(くん)」といった、男性に特化された呼称は、長州出身の吉田松陰が開いた松下村塾の子弟をはじめ尊王攘夷の志士が盛んに使うようになったことによって広まり、性差の激しい今日の日本語を作って、現代の日本人(とくに男性)を悩ませる元凶となったからです。
「僕」について:未成年の男子が「僕」を使うのは問題ないですが、成人男性は目下の人や親しい人と話すときを除いて「わたし」を使うべきだと考えられますが(辞書どおりに解釈した場合)、実際には目上の人に対して使うことも多く、テレビの中でも「僕」が氾濫しています。「僕」は「しもべ」が原義なので、へりくだった意味合いがあるからでしょうか。じゃあ男性は女性以上に謙譲の美徳が要求されるのかって言いたくなります。
「君」について:「さん」は年長者も含めて一般的に使われますが、「君」は同輩か目下の人に限られ、使用範囲も限定的です。それを男子に君付け、女子にさん付けで区別するのはどうも納得いきません。漫画やドラマなどの作品では職場などで目下の女性を君付けすることはありますが、実社会では学校から引きずって男性の君付けはよくありますが、女性の君付けはほとんど聞かれません。実社会でも漫画やドラマみたいに女性社員を君付けで呼んでいればいいと私は思うんですが。