2850 毒のない河豚 吉田仁

先日,といってももうだいぶ経つ。季節には早いが九月の末に河豚を食べた。 義弟の結婚式に出席するため高知にいった。無事に式も終わり,数日のんびりして明日は東京に帰るという日の晩に,義弟が手ずから養殖の河豚を調理してもてなしてくれたのだ。
新婚さんのためにぴかぴかに改装された離れの食堂につれあいともども招待され,まずは乾杯!
しかし問題は目のまえにある河豚の鍋である。
「養殖の河豚に毒はないちゃ」
そういわれても,小心者の身としてはなかなか手が出るものではない。 義弟は父親と一緒に養殖をやっている。鯛やハマチ,シマアジなどを手がけ,いまは主に河豚だが,手がけて日がまだ浅い。
「前にも刺身にして食べた。大丈夫だいじょうぶ」
こちらの反応を楽しんでいる……そんな気配もうかがえる。養殖ものには毒がない,というのも実は初耳だった。
ビールばかり飲んでいるうちに鍋は煮えてくる。器に大根おろしと汁を入れ,七味唐辛子をたっぷりかける。まずは豆腐や野菜から。
つれあいはすでに河豚の肉をつつきはじめている。
「もっと煮立てたほうがいい」
といっていた義父も,おもむろに河豚をつつきだす。
ぼくは,またビールを飲み干す。みんなの様子をうかがいながら,観念して恐るおそる河豚の白い肉の塊りを器にとる。ぷりぷりとして骨からすぐに離れる。ひと口―― うまい!
歯ごたえがあり,淡白で上品な味が口いっぱいにひろがる。ひと切れ食べたあとは,つぎつぎに箸が出る。喉もと過ぎれば熱さ忘れるで,最初のひと塊りが喉を通ったあとは,もう毒のことなどほとんど念頭から消えかけている。
そのうちに,なんと肝が箸の先にぶらさがる。いくらなんでも肝までは……  「肝臓はいちばん毒があるんだよね」
何気なさをよそおいつつ,つぶやく。
「大丈夫,肝がいちばんうまいちゃ」
と義弟はにっこり。
肝に毒があったなら,すでに汁のなかに溶けだしているはず。その汁もたっぷりとすすったあとだ。ええい,ままよ――
「う~ん!」
思わず声が出る。かすかな苦みと,やわらかな甘み。舌の上にとろけるような感触が広がる。
結婚式のことや近所の噂,新婚さんのおのろけに話の花が咲き,アルコールもまわってほどよい気分になったころ,突然ぼくの舌がもつれる。
みな一瞬にして沈黙し,ぼくの顔をみまもる。
「……い,いやあ,ちょ,ちょっと酔った」
東京に戻ってから少し調べてみた。
河豚を食べる習慣があるのは日本・朝鮮半島・中国など。ただし中国では現在,法律で禁止され,一ヶ所だけ公認の河豚料理店があるという。ほかの国・地域では“魔魚”と恐れられ,食用にすることはまずないらしい。
以下,魔魚たるゆえん。
・猛烈な毒がある
・口は小さいが,分厚い唇の裏にある四本の頑丈な歯で指や網を噛み切る  
・その歯でキリキリと歯ぎしりするやいなや,海中でも釣り上げられてからでも,おなかを毬のように大きく膨らませてしまう
・魚には瞼(まぶた)がないのが普通だが,河豚には特殊な瞼があってパッチリと目をつむる
問題は・の毒だ。
名をテトロドトキシンといい,マフグ科の学名テトラオドンと,毒素を意味するトキシンとの合成語である。目や皮,とくに肝臓や卵巣に多く含まれ,青酸カリの十倍以上の毒性がある。種類によっては一尾で三十人以上の成人を死にいたらしめるにたる猛毒をもつという。
中毒症状は四期に分かれる。
・食べて三十分ほどで手が痺れ,舌がもつれる
・胸が苦しくなって胃のなかのものを戻し,立てなくなる
・呼吸が困難になる
・意識がにぶり,呼吸が止まる
解毒剤は,ない。
毒にあたったと気づいたら救急車をすぐに呼び,周囲の人も患者につぎのような救急療法を試みることは必要だ。気休めかもしれないが。
・胃のなかのものをすべて吐き出させる
・人工呼吸や呼吸中枢興奮剤・強心剤などで呼吸障害を防ぐ
・利尿剤で尿とともに毒を排出する
河豚毒は熱に強いから,いくら煮立ててもだめ。義父が「もう少し煮立てからのほうが……」などといっていたのも,いまから思えば無意味な忠告にすぎない。 
天然ものはシロウト料理は絶対に禁物である。河豚調理師の免状をもつ専門家にまかせるしかない。
問題の“養殖の河豚には毒がない”という点についてだが,これは,大筋において間違いではないようだ。
なぜか? 簡単にいえば,有毒プランクトンを耐毒性のあるヒトデや貝が食べ,体内に毒を蓄積する。毒に弱い生物はそのヒトデや貝を嫌い,またもし食べても毒にあたって死んでしまうのに,河豚は好んでこれを食べ,これまた体内に毒をどんどん蓄積する。
そういう淘汰と食物連鎖の果てに天然の河豚は毒魚となるにいたる。 一方,養殖の河豚はといえば,養殖用の網で囲われ,人間が与える毒性のない飼料で育ち,自然の食物連鎖から切り離される。ゆえに毒をもたない。
ただし,である。養殖用の囲いの底が海の底そのものを利用するような構造になっていると話は違ってくる。耐毒性のあるヒトデや貝が海底にいる。
さらには,海中に浮かんでいる養殖網でも自然に破れたり,河豚がその鋭い歯で噛み切って破れ,天然の河豚がまぎれこむことがないともかぎらない。いや,その恐れは多分にある。とすれば,養殖河豚といっても決して無害とばかりはいえなくなってくる。
くわばら,くわばら……
やはり河豚は専門店で食べるのが,いちばん心ゆくまで味わえるという妥当な結論に落ちつくのだ。
もっとも心ゆくまでとなると頭の痛いのは値段だが……(杜父魚文庫より)
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