立冬は毎年十一月八日ごろである。気の早い人など,そぞろ春を待ちわびるような落ちつかなさを感じるようにもなる。其角もこう詠んでいる。
春をまつことのはじめや酉の市
其角は江戸時代中期の俳人。お酉様は,以前は旧暦十一月の酉の日におこなわれた行事だから,いまよりも寒い時期のことになる。
木枯らしが吹きはじめるようになってお酉様の声を聞くと,あとに煤払いや歳の市,掛け買いの支払いやら取り立てやら,どん詰まりの大晦日に向かって慌ただしい日々がひかえていることに気づく。
それらがみな済んで,やっと新春を迎えられるわけだから,季節の移り変わりに敏感で,生活と年中行事とが深く結びついていた江戸時代の人びとにとって其角の句は,よほど身近に感じられるものだったにちがいない。
この酉の市も,いまは新暦でおこなわれている。ことしは十一月の五日・十七日・二十九日の計三日がそうだ。最初の酉の日を“初酉”といい,“二の酉”とつづく。ことしのように“三の酉”まである年もある。
初酉のことを“一の酉”ともいう。ほんとうかどうか定かではないが,こんな話がある。
大阪出身の武田麟太郎が一九三五年(昭和十)に「一の酉」という小説を発表した。作品のなかでは初酉と書いているのだが,当時の流行作家だった麟太郎がタイトルに使った言葉はひとり歩きを始め,いつのまにやら初酉を一の酉と呼ぶ言い方がひろまってしまった。それまで東京っ子は一の酉なんていわなかった,と。
樋口一葉の研究でも知られる和田芳恵も,一の酉とは武田麟太郎が初酉を新しくいいかえた造語だと,どこかで書いていた。
ところが,例えば東京っ子の永井荷風は「すみだ川」という作品で一の酉という言葉を使っているのである。「すみだ川」は武田麟太郎の「一の酉」に先だつこと二十六年も前の一九〇九年(明治四十二)に発表された作品だから,武田麟太郎の造語うんぬんというのは,あるいは信憑性にとぼしい話かもしれない。
信憑性にとぼしいといえば,“三の酉まである年は不景気だ”とか“火災が多い” といわれるのも,よくわからない。
火事はともかく,ここ数年,巷には不景気風がふきまくり,カウンターブローのごとく生活にじわじわ響いてくる。果たしてことしは年の瀬を無事に乗りこえられるのかどうか心配になってくる。
だからこそ,酉の市で縁起物の熊手を買って幸運を掻きこもうと思う人が多くなるわけだが,当日のその人出を考えると,ぼくは尻込みせざるをえない。人に酔うのだ。
「半七捕物帳」や「修禅寺物語」の作者である岡本綺堂が「風俗明治東京物語」のなかで,“大勢の人に押されて,揉まれて,踏まれて蹴られて,帽子は飛ぶ,下駄は失くなる,着物は裂ける,羽織は脱げる。おまけに紙入は掏られる,溝へ落ちる” と,酉の市の凄まじいまでの有りさまを描写している。
“実にありとあらゆる苦しみをし尽くした上,まず生命に別状のないのを取得にして,「今日の酉は賑やかだったぜ」と,手柄顔に吹聴しているのが東京人の特色である”
これではとても酉の市には出かけられないと考えたぼくは,お酉様の前に浅草の鷲神社を訪ねてみた。台東区千束三丁目,むかしの地名でいうと下谷区龍泉寺町になる。
樋口一葉の「たけくらべ」は,この龍泉寺町や吉原界隈を背景に,大人へ成長しようとする多感な時期の子どもたちを描いた名作だった。冒頭に,“……大音寺前と名は仏くさけれど,さりとは陽気の町と住みたる人の申しき” とあるその大音寺は,鷲神社の斜向かい筋にひっそりとたたずんでいる。
鷲神社は建物も境内もコンクリートで固められ,樹木も少なく殺伐としている。商売繁盛の神さまに風情などむしろ不要,というわけでもないだろうが,なにか寂しい。
むしろ,たとえどんなに混雑しようと,ここはお酉様のときに来てこそ,その雑踏・狂騒のうちに一種の風情を感じるところなのかもしれない。
樋口一葉は,一八九三年(明治二十六)の七月から十ヶ月ほどの短い期間ではあったが,龍泉寺町三百六十八番地に住んで雑貨や駄菓子などを商う小さな店を開いている。いま,旧居跡には碑があり,その近くに区立一葉記念館や記念公園がある。
商いの神さまのお膝元にもかかわらず,一葉の荒物屋はうまくいかなかった。翌年には店を畳んで本郷の丸山福山町に引っ越している。そこで龍泉寺の見聞をもとに書いたのが,一葉の名を不朽にした「たけくらべ」だった。
満たされない思いを抱きながらそうそうに鷲神社をあとにしたぼくは,その足で一葉記念館にまわった。ここはいつ来ても心のやすらぎを覚える場所である。広くはないが人も少なく静かで,ゆっくり展示品を眺めるともなく眺めながら,浅草駅から歩きづめの足を休めた。
欲深さまとも呼ばれるお酉様はことしもおおいに賑わうだろう。その喧噪もしかし,ここまでは届かないような気がする。
一葉の命日は三の酉のまえの十一月二十三日である。勤労感謝の日だが,日本最初の職業女流作家である一葉は,貧窮と過労のすえに一八九六年(明治二十九)のこの日,肺結核で死んだ。享年二十四という若さだった。(杜父魚文庫より)
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2854 お酉様と樋口一葉 吉田仁

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