東北と一口にいうが、岩手県ひとつとってみても県北と県南では気質の違いがある。南部藩領と伊達藩領に分かれた歴史的な積み重ねの違いがあるのかもしれない。だが、西和賀は岩手県でありながら、県北と県南の区別で律することが出来ないものがある。著しく秋田県的なのである。もっというなら佐竹藩の影響がある様に思う。
西和賀に足を踏み入れてから二十七年の歳月が去ったが、この地を訪れる時には必ず天気予報をインターネットで見ることにしきた。岩手県の天気は西和賀にはあて填らない。秋田県東部の天気こそが西和賀の天気なのである。
気象条件だけでない。この地に住む人達の先祖の多くは佐竹藩領から流れてきている。わが家も秋田県能代から来た可能性が強い。人工衛星から撮影した写真で地質分析をすると西和賀は東部よりも西部、つまり秋田県に傾斜しているという。
私の先祖は西和賀の沢内村で十代三百年の歴史を残したが、その前は佐竹藩領能代から南部藩領雫石邑に流れてきている。
西和賀の湯田町に土着した人達の先祖を辿ると、佐竹藩領の横手から流れてきたという人達が多い。周囲を峻険な山に囲まれた西和賀なのだが、北は雫石ルート、南は横手ルートから、この新天地の盆地に入ってきたのであろう。
地元に伝わる沢内開闢の古伝説に”平家の落武者”が隠れ住んだ里という説話が残っている。遠く壇ノ浦で滅亡した平家が東北の山間の僻地まで流れてきたとは、にわかに信じ難い。だが、義経伝説にもあるように日本海沿岸を陸地沿いに北上する道が開けていたし、何よりも沿岸を小型船で北上して秋田に来る方法があった。
昔は日本海側こそが表日本で、太平洋側は不毛の裏日本であった。太平洋側が表日本になったのは、江戸幕府以降せいぜい四百年ぐらいの歴史しかない。日本海側は大陸との海上交易が盛んであったし、京都を結ぶ沿岸交通も賑わっていた。
四囲を峻険な山に阻まれ南部藩の流刑地だった西和賀だが、目を佐竹藩領に向けると交流が盛んな土地柄であった。
南部領だけの目で見ると閉ざされた邑のように思ってしまうのだが、この地に住む人達に共通しているのは、驚くほど開明的な性格である。秋田との歴史的な繋がりから解明すると、この謎が解けて来る。そして、この風土から明治維新以降、数多くの人材を中央に送り出している。
私は春と秋の二回は、この地にやってくる。湯量が豊かな温泉と地酒やどぶろくに魅せれているからである。今回も例によって酒の座が始まった。湯田町の前町会議長だった照井強吉さんや同姓の沢内村商工会長の照井富太さんも顔を出していた。
この照井姓は西和賀にみられるのだが、発祥の地は秋田県。上田萬年文学博士が監修した「姓氏家系大辞典」には照井氏族は陸中国磐井郡照井邑としているが、同時に「出羽の照井氏族」についても触れている。
出羽国山北に小野寺義道という領主が居たが、その配下の武将に照井弥八郎の名が見える。常陸国から国替えになった佐竹候に反逆して兵を挙げたが、鎮圧された一族は西和賀に逃れて土着している。さらに一部の照井氏族は盛岡に流れて南部藩に召し抱えられ、照井小作という学者が出た。
私の祖母は沢内村の旧家・北島家から分家した為田家の出であるが、生前に「為田の先祖は秋田の横手から来たらしい」と言っていた。北島姓そのものは出雲国の北島連から来るのだが、加賀国の北島氏族が知られて居る。
その一族が長い年月を経て、北上して出羽国に至り、やがて元禄年間頃に沢内村に土着したのであろう。北島家の最古の墓碑は、正徳六年(1716)の「清十郎の母」が残っている。
古沢家の最古の墓碑は、延享五年(1748)の「善兵衛の母」が現存する。出羽国から北ルートの雫石邑を経て沢内村に土着した古沢家に、南ルートの横手や湯田邑左草を経て沢内村の旧家となった北島系為田家から嫁を迎え結ばれた歴史が醸し出す「妖しさ」を感じてならない。
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