2880 北朝鮮軍部の本命・金永春氏が表舞台に 古沢襄

北朝鮮軍部の本命と目される金永春氏が表舞台に出てきた。韓国の朝鮮日報は「金正日総書記は韓国の国防長官に当たる人民武力部長に金永春次帥(大将と元帥の間の階級)を任命した」と伝えている。
杜父魚ブログでは2007年4月13日以来、金正日側近の金永春氏が高齢の趙明録氏に代わって軍部のトップになると予測してきた。ロシア・モイセーエフ国立アカデミー民俗舞踊団の公演で金正日氏と並んで鑑賞する姿が目撃されて以来、タカ派の金永春氏に注目してきた。
<趙明録は、すでに86歳。金正日お気に入りの金永春国防委員会副委員長が趙明録に代わって第一副委員長に昇格する日が近いのではないか。政権樹立60周年の記念行事のひな檀では趙明録の隣に立っていたが、軍服姿ではなく人民服だったのが目をひいた。(2008年9月11日 杜父魚ブログ)
そこで登場したのは趙明録第一副委員長を支える二人の副委員長の一人として二〇〇七年人事で登用された金永春次帥の存在である。総参謀長当時から急進強硬派ホープの金正日側近といわれている。
金永春の後任となる総参謀長には、野戦軍司令官だった金格植大将を持ってきたのも異例の人事。北朝鮮人民軍は完全に趙明録・金永春・金格植の急進強硬派が握ったといえる。軍事パレードを閲兵する趙明録の側には金永春の姿もあった。(2008年9月10日 杜父魚ブログ)
日本のマスコミで北朝鮮の平壌に支局を置いているのは共同通信だけだが、建国60周年の軍事パレードで必ず閲兵していた金正日総書記が、今回は姿を見せなかったと速報してきた。閲兵は金永春国防委員会副委員長ら軍幹部が行った。(2008年9月10日 杜父魚ブログ)
北朝鮮の軍部情勢については韓国筋の情報に頼らざるを得ない面があるが、これまで急進強硬派と目されてきたのは、総政治局長趙明録次帥、総参謀長金英春次帥、作戦局長金河奎大将、総政治局組織副局長玄哲海大将といわれてきた。金英春次帥の後任総参謀長になった金格植大将も急進強硬派とみられる。(2007年4月27日 杜父魚ブログ)
金永春は一九三二年生まれ(一説には一九三六年生まれ)だから七十歳台半ば、決して若い世代ではない。一九九五年に人民軍総参謀長になり、次帥。一九九七年に平壌で行われた軍事パレードでは、閲兵指揮官となり、メリハリのきいた演説をしている。趙明録とともに金正日にもっとも近い人物とみられ、ロシア・モイセーエフ国立アカデミー民俗舞踊団の公演では、金正日と並んで鑑賞する姿が目撃されている。(2007年4月13日 杜父魚ブログ)>
      http://blog.kajika.net/?search=%B6%E2%B1%CA%BD%D5
朝鮮日報は韓国情報当局者から次の様な北朝鮮軍部の首脳人事を伝えている。また「金総書記が今回金永春氏を抜てきしたのは、高英姫氏の息子で三男の正雲氏を後継者にするための事前準備だ」という分析もしている。
<「11日に行われた北朝鮮軍部の首脳人事は、10年以上続いてきた軍内部の権力バランスに変化をもたらすものだ」。これは今回の北朝鮮軍部の人事について、韓国の情報当局者が説明した内容だ。金正日(キム・ジョンイル)総書記は韓国の国防長官に当たる人民武力部長に金永春(キム・ヨンチュン)次帥(大将と元帥の間の階級)を、また韓国の合同参謀議長に当たる総参謀長には、現在平壌防御司令官を務める李英鎬(リ・ヨンホ)大将を任命した。この当局者は「金永春人民武力部長が北朝鮮軍部のワントップとして浮上している」とコメントした。
専門家によると、本来北朝鮮は1995年に当時元帥だった呉振宇(オ・ジンウ)人民武力部長が死亡するまでは、軍部の権力を人民武力部に集中させるシステムを採っていた。呉振宇部長は韓国戦争(朝鮮戦争)当時、金日成(キム・イルソン)主席の警護隊長だった。しかし98年、金総書記は軍を最優先にするという「先軍政治」をスローガンとし、軍を直接統制し始めるようになった。そのため軍の権力を人民武力部、総参謀部、総政治局へと分ける方式へと転換したとみられている。人民武力部は軍の行政だけを担当するようになり、金鎰喆(キム・イルチョル)次帥が98年から2009年までそのトップにあった。また総参謀部は軍の作戦計画を立てる組織で、金永春次帥が95年から07年まで率いていた。軍の人事と監督権を持つ総政治局は、趙明禄(チョ・ミョンロク)次帥が95年から現在に至るまで担当している。
しかし今回の人事について情報当局者は、「今後、金永春氏一人に権力が集中するのがはっきりと見て取れる」と述べている。新しい総参謀長である李英鎬大将は、平壌防御司令官を務めたこと以外には、これといった経歴が知られていない少壮派だ。そのため百戦錬磨の金永春次帥の対抗者あるいはけん制役としてはやや力強さに欠ける、というのが一般的な見方だ。
もう一つの軸である趙明禄政治局長は長い間健康不安を抱えており、総政治局第1副局長のキム・ジョンガク大将がその役割を代行している。そのため治安政策研究所のリュ・ドンリョル研究官は、「金総書記は自らの健康に不安を抱えるようになったため、体制の安定化を目指し最側近の金永春部長をワントップとして、軍を引き続き掌握することを狙っているようだ」と分析している。
問題は、金永春次帥が95年以降、北朝鮮による数々の挑発行為を実際に行ってきた強行派という点だ。東海(日本海)での潜水艦侵入事件(98年)やテポドン1号の発射(98年)、また第1次延坪海戦(99年)、第2次延坪海戦(02年)、テポドン2号の発射と核実験(06年)など、すべて金永春次帥が総参謀長だった期間に起こったものだ。ある北朝鮮の消息筋は「金永春氏は普段から酒もほとんど飲まず、作戦を構想するのが趣味というスタイル」と語るほどだ。また、かつては野戦司令官の第6軍団長や総参謀部作戦局長などを務めたこともある。
そのため韓国軍も緊張しているという。ただでさえ北朝鮮は、韓国に対する脅迫やミサイル発射の動きで軍事的緊張を高めている。このような状況で強行派の金永春次帥が登場したことで、北朝鮮が冒険を行う可能性がさらに高まったというわけだ。
金永春次帥がこの地位に上り詰めるまでには、その優れた政治的処世術も大きく作用したとの見方もある。ある消息筋によると、「金永春氏は金総書記の次男である正哲(ジョンチョル)氏と三男の正雲(ジョンウン)氏の母親である高英姫(コ・ヨンヒ)氏の生前には、彼女のグループに所属していたといううわさがある」という。また別の政府消息筋は、「軍の内部で高英姫氏を“平壌の母”と呼んで祭り上げたのが金永春氏だ」と語っている。
これらを根拠に一部の専門家やマスコミは、「金総書記が今回金永春氏を抜てきしたのは、高英姫氏の息子で三男の正雲氏を後継者にするための事前準備だ」という意見を提示している。しかしこの見解に反論する見方もある。国防研究院安保戦略研究センターの白承周(ペク・スンジュ)センター長は、「金永春氏は労働党の張成沢(チャン・ソンテク)行政部長が力を持ち始めた95年から98年に浮上し始めた人物」と指摘し、三男・正雲氏の後見人説に反論している。
いずれにしても金永春氏の人民武力部長就任をきっかけとして、北朝鮮軍部による対南・対米問題への介入は今後さらにその回数が増え、程度も強くなる可能性が高くなりそうだ。(朝鮮日報)>
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