1972(昭和47)年9月27日の夜、折から日中国交正常化交渉のため北京に滞在中の日本首相・田中角栄は、中南海の毛邸で毛沢東主席と会談した。会談録は同席した二階堂進官房長官が翌日、同行記者団に発表し,その後彼が月刊雑誌「文芸春秋」に書いた手記の内容がすべてとされてきた。
かくいう私は当時NHKから派遣された同行記者5人の一人として二階堂長官の発表を聞き,それをそのまま信じて今日まできた。
だが、とんでもない、実は当時は厳重秘密とされていた毛沢東発言があったのだ、と言う説が「田中角栄と毛沢東 日中外交暗闘の30年」として講談社から2002年11月27日に発刊された本の中で紹介されたのである。筆者は青木直人、1953年,島根県生まれのフリーのジャーナリストとなっている。
いや、これは中国側が今になって自分たちの都合の良いようにでっち上げたいわば謀略工作の一環だと指摘する向きがある。しかもその筋では流布された話らしいので、そうかも知れないと思われるところもある。しかし読んで見なければ真偽の判断もつかない。
彼も指摘しているように<当日の会見に出たのは、日本側が田中首相、大平外相、二階堂官房長官。中国側が毛沢東主席、周恩来首相、姫鵬飛外相、寥承志中日友好協会会長。これに通訳・記録係として王効賢(外務部アジア局)と林麗雹(共産党中央連絡部)という二人の中国女性が加わった。
日本側の事務方は出席していない(させてもらえないのか、日本側には通訳も居ない=渡部注)。2001年11月現在、存命中なのは通訳と記録を担当した二人だけで、主役の日中首脳たちは一人残らず物故した。
会談の後、二階堂は(プレス・センターに来て)一問一答形式で会談内容を記者発表したが、内容は・・・友好ムードを伝えるだけで、「政治的な話はいっさい出なかった」とされている。
とにかく秘密の会話があったと言うのなら読んでみよう。
ひと通りの挨拶と雑談がおわると、毛沢東は田中角栄の目の前で、やおら右手を頭上にあげた。・・・「田中先生、日本には四つの敵があります。・・・「最初の敵はソ連です」・・・「二番目がアメリカです」「そしてEC(ヨーロッパ)です」・・・「最後が」・・・「それは中国です」
・・・毛はさらに話を進めた。意外な人物の名が毛の口から発せられた。「あなた方はヒットラーをご存知ですね。いまでもヒットラーは西側の一部では尊敬されていますが、わたしの見るところではバカな男です。彼はイギリス、フランスを敵に回し、ソ連に挑み、最後にアメリカと衝突したのです。中国人民もまた敵になったのです。彼は全世界を敵に回してしまったのです。なんと愚かな男でしょうか」
・・・「お国の東条(英機元首相)も同じでした。まず最初に中国と戦いました。アメリカに戦争を挑み、イギリス、フランスとも衝突しました。最後にはソ連とも戦う羽目に陥ってしまった。世界中が日本の敵になったのです。みんなを敵にして、東条は自滅していったのです」
・・・「あなた方はもう一度ヒットラーや東条の歩んだ道を歩むのですか。よく考えなくてはいけません。世界から孤立して、自暴自棄になって自滅していくのですか。アメリカ、ソ連、欧州、そして中国。この四つを同時に敵にまわすのですか。どうですか。田中先生、組むというなら徹底して組もうではありませんか」
・・・「あなた方がこうして北京にやってきたので、どうなるのかと、世界中が戦々恐々として見ています。なかでも、ソ連とアメリカは気にしているでしょう。彼らはけっして安心はしていません。あなた方がここで何をもくろんでいるのかがわかっているからです。
・・・「ソ連と比べると、アメリカはまだいくらかはましでしょう。しかし、田中先生が来たことを愉快には思ってない」
・・・「ニクソンはこの二月、中国に来ましたが、国交の樹立までは出来ませんでした。田中先生は国交を正常化したいと言いました。つまりアメリカは後からきた日本に追い抜かれてしまったというわけです。ニクソンやキッシンジャーの胸にはどのみち気分の良くないものが有るのです」毛は笑いながらアメリカとソ連の心中を解説してみせたのだった。
「田中先生、何十年、何百年かけても話し合いがまとまらないこともありますが、たった数日で合意することもありますよ」こうして会談は終わった。
最後の言葉で、日中国交正常化交渉の成功は約束されたも同然だった。時間にして一時間。・・・毛の自宅を辞した田中は大きく息を吸い込んだ。政治抜きと伝えられた日中首脳会談は、徹頭徹尾政治的なものだった・・・と結ばれている。
残念なことに会談の当事者たちはすべて黄泉の国へ旅立ってしまった。残っているのは中国側の通訳と記録係という二人の女性だけだが、彼女たちは2002年9月号の日本向けの雑誌「人民中国」で毛と田中の間で交わされたとされる「マオタイ酒」問答や日本の選挙の話について「そのようなやり取りは覚えていない」と語っている、という。
田中がマオタイ酒について「65度」と言ったら毛が「あれは75度ですよ。誰が間違えたことを教えたのですか」と言ったと言う話。日本の選挙の話というのは、毛が日本には選挙があって大変ですね、と言ったのに田中が「25年間に11回(衆議院)選挙をしました。街頭演説もやらなければなりません」と言ったところ毛が「気をつけなさいよ」といい、田中はさらに「握手などもしなければ、なかなか選挙には勝てませんよ」と答えたなどというもので、われわれ同行記者団に対して二階堂官房長官は最後に田中首相が「それでは主席もいつまでもご健康で」と述べたところ毛は「私もリウマチで少々足が弱くなりました。私は、本を読みすぎたように思っていますが、毎日、本を読まなくては暮らせなくなりました」と答えたあと土産として「楚辞集注」六巻を手渡す場面があって別れた、と説明していた。
それを、違うと青木にささやいた人物は「中国共産党の実力者にも太いパイプを持つ日本人」であり東京に住んでいるが実名は明かせないと青木はいう。もう一人「外務省にもパイプを持つ人物」、最後に北京で会えた「中国共産党の対日工作関係者」だといい、秘密会談の存在を肯定し「三人の話は、微妙なところでもほぼ一致したので情報が真実であることを確信した」と書いている。
私は早くから中国に関心を持っていたわけではない。ただ佐藤内閣が中国封じ込めを図るアメリカに対してそれこそ一辺倒の態度を取るのは何故かとの淡い疑問を述べたところ、当時のNHK政治部長から、これから作る中国研究会に加われと言われて入った。
ところが中国研究会のメンバーなるが故に翌年9月の田中訪中に同行させられた。北京のすぐ郊外では肥タゴを担ぐ人がおり、終戦直後の田舎を思い出したものだ。
その後5年経って園田外務大臣の政務秘書官になったら、主な仕事が日中平和友好条約の交渉促進だった。約9ヶ月後に園田大臣が人民大会堂で条約に調印するのを後ろの壇上から見ていて、これからは親中派と見られるな、と思った。
それ以外に特別な関係を中国とは持っていないのだが、いつの間にか深く関心を寄せるようになっている。あまたの中国関係の本を読むようにもなった。それでも素人には違いないが、中国は日本との平和友好条約を結んだ直後から鄧小平による開放改革路線を摂ったことにより経済は明らかに資本主義体制になった。
それに反比例して共産党の存在価値が下落の一途を辿るようになった。政治的な締め付けをすれば経済は立ち行かなるから経済的には共産党は一見、不要の存在になっていくようだ。汚職の多発はそれを証拠付けている。
日本の江戸時代末期、商人の経済的台頭に伴い武士が政治的にも凋落して行った事実と並べて実に興味深いものがある。
そこで中国共産党とすれば、利用度の高い日本に対しても革命の原点において絶対、無条件には許していなかったとの姿勢を示す必要がある。またその一環として靖国神社への首相参拝などを通じて日本をこれから恫喝しながらコントロールして行くには、既に国交正常化の時点から対日態度は厳しかったのだと日本人に示す材料として秘密会談録の存在話は実に有効な材料であろう、と思う。(杜父魚文庫より)2003/02/02
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