ユダヤ金融資本と日本が結びつきを持ったのは日露戦争からだったと言われている。これについて伊勢雅臣氏は平成15年5月に「高橋是清 ~ 日露戦争を支えた外債募集」を書いた。当時の日銀副総裁・高橋是清は明治37年2月24日にアメリカに向けて出帆した。すでに日露は2月8日に戦端を開いている。
莫大な戦費の不足を補うために欧米市場で資金を調達する、との使命を帯びた高橋是清の出帆だったが、開戦してから外債で戦費を調達するというのは乱暴な話である。泥縄的な話だが、高橋是清の努力で戦費の調達ができた。
人物探訪: 高橋是清 ~ 日露戦争を支えた外債募集
■1.金がなければ戦もできない■
明治37(1904)年2月24日、日銀副総裁・高橋是清は横浜出帆の汽船でアメリカに向かった。すでに同月8日には連合艦隊主力は旅順港外でロシア艦隊を攻撃し、陸軍の先遣部隊も仁川に上陸を開始して、日露戦争が勃発していた。
是清の役割は欧米で外債を募集し、戦費を調達することであった。政府はとりあえず1年分の戦費を4億5千万円と見積もり、そのうち1億5千万円が海外に流出するとの予想を立てた。しかし日銀所有の正貨(金と交換しうる貨幣)余力は約5千万円程度しかなく、不足分の1億円を何としても外債で調達しなければならなかった。当時の国家予算・約6億8千万円と比較してみれば、その規模が想像できよう。
是清はアメリカに着くとニューヨークに直行して、数人の銀行家に外債募集の可能性を諮ったが、「豪胆な子供が力の強い巨人にとびかかった」と日本国民の勇気を嘆賞しつつも、米国自体が産業発展のために外国資本を誘致しなければならない状態で、とうてい起債は無理だとの事であった。
アメリカがだめならロンドンで起債を考えなければならない。おりしも外国為替を担当する横浜正金銀行のロンドン支店長・山川勇木からは「ロンドンでは外債募集の見込みはない。今日正金銀行のごときはびた一文の信用もない」との電報を送ってきていた。それには構わず、是清はすぐに英国に向かった。
天は自ら扶(たす)くる者を扶くというではないか。国家の危急にのぞみ、全力を尽くすばかりだ。
■2.浮きつ沈みつ■
是清は安政元(1854)年、江戸で幕府絵師の家に生まれ、すぐに江戸詰めの仙台藩足軽・高橋是唯の養子に出された。12歳にして横浜の英人宅のボーイを務めながら英語を習った。14歳で仙台藩の留学生として渡米したが、米人に騙されて奴隷として売られ、カリフォルニア州オークランドで家事奉公をする。
仙台藩からの別の留学生に救われて、ようやく帰国した後は大学南校(後の東京大学)の英語教官手伝いを命ぜられたが、今度は悪友に騙されて250両の借金を押しつけられ、日本橋の売れっ子芸者の家に居候して、三味線持ちの手伝いをしていた。
見かねた友人の紹介で唐津の英語校で教え始めると、教育や学校経営でたちまち成果をあげた。その後、農商務省に引き抜かれて特許や商標制度の確立という業績を残したが、ペルーの銀山経営というペテン話に引っかかり、関係者の救済のために全財産を投じて無一文に戻った。その後、是清の力量を見込んだ日銀総裁・川田小一郎に拾われ、一介の事務主任から始めて、持ち前のやる気と能力でたちまち抜擢されて、ついには45歳にして副総裁となった。
■3.「困った境遇」■
是清は後年、この浮き沈みの激しい前半生をこう振り返っている。
私も今日までには、ずいぶんひどく困った境遇に陥ったことも一度や二度ならずあるのだが、しかも、食うに困るから助けてくださいと、人に頼みにいったことは一度もない。
いかなる場合でも、何か食うだけの仕事はかならず授かるものである。その授かった仕事が何であろうと、常にそれに満足して一生懸命にやるなら、衣食は足りるのだ。
ロンドンでの外債募集に向かうというのも「困った境遇」だったが、それ以上に大国ロシアとの戦いを始めた日本帝国全体が「ひどく困った境遇」にあった。しかし是清も日本も「助けてください」と外国に頼みはしなかった。欧米の資本家に対し、わが国に金を貸せば得をする、と説得にかかったのである。
■4.ロンドンの銀行家たちの躊躇■
ロンドン市場では日本公債に対する人気は非常に悪かった。4パーセントの利付きポンド建て公債の価格は80ポンドだったのが、戦争が始まるやたちまち60ポンドまで値下がりしてしまい、所有者に大損害を与えていた。一方、ロシア政府の方は同盟国フランスの銀行家の後援を受けて、その公債の価格はむしろ上昇気味だった。
この状態で新たに日本公債を発行しても、応募者が集まらず失敗に終わる可能性が高い。それは日本帝国が欧米金融市場からも見放された事を全世界に知らしめてしまう。そうなれば日本軍の軍費はたちまち底をつき、敗戦は火を見るよりも明らかになる。
是清は毎日のように英国の銀行家と話をしているうちに、彼らが日本公債引受けに躊躇している理由が分かってきた。一つには兵力からしても日本に勝ち目はないと見ていることだった。日本が敗戦したら、その公債は紙くずになってしまう恐れがある。そこで是清はまず日本にも勝ち目がある事を理解させようとした。
すなわちこのたびの戦争は、日本としては国家生存のため、自衛上已むを得ずして起ったのであって、日本国民は二千五百年来、上に戴き来った万世一系の皇室を中心とし、老若男女結束して一団となり、最後の一人まで戦わざれば已まぬ覚悟である、というような説明をすると、日本の事情に疎い銀行家たちは非常な興味をもって聞き入った。
もう一つの躊躇の理由は、英国は日本の同盟国ではあるが建前としては局外中立の立場にあり、公債引受けによって軍費を提供する事は中立違反となるのではないか、という点だった。これについては是清はアメリカの南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例などを引き、法律家や歴史学者の意見も確かめて問題ないことを明らかにした。
■5.日本政府は元金利払い共に一厘たりとも怠ったことはない■
是清の説得が徐々に浸透して、1ヶ月もすると銀行家たちが相談の上、公債引受けの条件をまとめてきた。ポンド建て、利子年6分、期限5カ年、発行限度3百万ポンド、額面100ポンドで発行価額92ポンド、日本の関税収入を抵当とする、というものであった。
関税を抵当とする以上、支那の税関に英国人管理人をおいているように日本にも派遣すべし、という意見が強かったが、是清は頑として聞かなかった。
一体、貴君らが日本と支那とを同一に見ることが間違っている。日本政府は従来外債に対して元金利払い共に一厘たりとも怠ったことはない。ただに外債のみならず、内国債でも未だかつて元利払いを怠ったことはない。それを支那と同一視されては甚だ迷惑である。
是清がこう強く言い張ったので、銀行家たちもとうとう管理人派遣をあきらめた。また是清は他の条件についても、発行金額を日本政府の希望1千万ポンドの半額5百万ポンドに、期限5ヶ年を7ヶ年に、発行価額92ポンドを93ポンドに、と主張して譲らず、これらを英国銀行家たちに呑ませることに成功した。
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