■6.天佑■
ようやく銀行家たちとの話はまとまったが、まだ必要額1億円の半分である。そこに幸運が訪れた。是清と日本で知り合っていたイギリス人の友人が、銀行家たちとの話がまとまった事を喜んで晩餐会に招待してくれた。そこに居合わせたのが、ニューヨークのクーンロエプ商会代表者シフであった。
是清の隣に座ったシフはしきりに日本の経済や生産状況、開戦後の人心動向などについて聞いてくる。是清は一つ一つ丁寧に答えた。
翌日、シフが人を介して、残りの5百万ポンドを自分が引き受けて米国で発行したいと言ってきたのには、是清も驚いた。シフもクーンロエプ商会も昨晩初めて耳にしたばかりである。英国の銀行家たちがまとまってようやく引き受けられるほどの金額を、一人で処理できるのだろうか。
調べてみると、シフは世界的な大富豪である事が分かった。またロンドンの銀行家たちも、シフの申し出を非常に喜んだ。英国とロシアの王室は親戚同士であり、また同じ白人国家である。一人英国のみ日本に肩入れするのは心苦しいという後ろめたさがあったのだが、米国も加わったということでそれが一掃された。
シフとの相談は人を介してトントン拍子に進み、米英で同時に合計1千万ポンドの発行ができることとなった。是清は、これこそ天佑だと大いに喜んだ。
シフは契約がまとまった段階でアメリカに帰ることになり、もう一度是清に会いたいと言ってきた。しかし是清は「シフにはひたすら感謝し、敬意を表しているが、私は一国を代表してきている。私に会いたければ、シフの方から訪ねてくればよい」と答えた。公債引受けは援助ではなく、あくまで対等のビジネスだという筋を通したのであろう。
シフは気を悪くすることもなく、是清が泊まっている三流商人宿を訪ねてきた。その後、是清が返礼にシフを訪ねると、こちらは各国の王侯クラスが泊まるロンドンでも第一流のホテルであった。シフは相変わらず誠意あふれる態度で接してくれたが、是清はさすがに「宿替えをせねば、体面にかかわるなあ」ともらした。
■7.シフの志■
5月11日から、米英両国で公債の募集を開始した。おりしも5月1日には日本軍が朝鮮と満洲の境をなす鴨緑江の渡河作戦でロシア軍を圧倒し、大勝を博したとのニュースが流れたため、日本公債の人気は急上昇した。是清が発行銀行の様子を見に行くと、申込人の列が3百メートルも続き、発行当日の午後3時には締め切ったほどだった。5千万円の募集に対し応募高は、ニューヨークでは2億5千万円、ロンドンでは実に15億円に達した。
それまで「正価の流出が予想よりはるかに早いので一日も早く募債を成功させよ」と日銀総裁から繰り返し窮状を訴えられていたのが、日本公債の人気ぶりが世界に伝わると、正価の流出はピタリと止まった。
その後、是清はシフとの交際を深めていく過程で、彼がなぜ積極的に日本公債を引受けたのかが明らかになった。かねてからロシアではユダヤ人が虐待されており、海外のユダヤ人はロシア政府を援助することによって、同胞の待遇を改善しようとしていたが、ロシア政府は金を借りるときだけ都合の良い事を言って、一向に約束を守らない。
シフは米国のユダヤ人の会長であり、ロシア政府に対して憤慨していた。そのロシアに戦いを挑んだ日本の兵は訓練が行き届いて強いということを知り、これを財政的に助けて、よしんば日本が勝利を得なくとも、ロシアの政変にでもつながれば、ユダヤ同胞はその虐政から救われるだろう、と考えたのであった。
■8.償金の有無は主要の問題ではない■
その後、是清は英国銀行団やシフの協力を得て、第2次・2億円、第3次・3億円、第4次・3億円と矢継ぎ早に公債募集を成功させていった。是清が戦況と市況を睨みつつ、的確に募債条件を設定し、新聞を通じて投資家たちにきちんと説明を行い、さらにドイツやフランス市場にも募集を拡げていった成果であった。ニューヨークでは、巨額の起債にも関わらず金融市場を乱さないよう深甚の注意を払ってくれたと、投資家たちから賛辞を寄せられた。
日露57万の兵力が激突した奉天会戦、バルチック艦隊を撃滅した日本海海戦を経て、明治38(1905)年9月5日、講和条約が調印された。償金は要求せず、南樺太のみ割譲という日本側が大幅に譲歩した条件であった。
ロシアから莫大な償金をとれなかった日本政府は資金に窮して、再度公債募集を図るのでは、という観測が欧米市場に流れ、日本公債の人気がにわかに消沈した。是清はインタビューを求めてきたロイター通信などの記者にこう語った。
軍隊の引き揚げ等、戦争の後始末に要する費用は現在の資金にて十分であり、もし今後、外債を起こすことがあれば、従来の高利公債を整理するためにほかならない。この際、平和の成立は満足すべきことであって償金の有無は主要の問題ではない。
この発言が各新聞に掲載されると、投資家たちは好感して、日本国債の人気は再び盛り上がった。
■9.金銭と独立心■
是清は60歳まで日銀総裁を務めたが、その後、7度も大蔵大臣に任ぜられ、さらに総理大臣、農商務大臣、商工大臣、農林大臣を歴任した。
昭和9(1934)年には81歳にして7度目の蔵相就任。満洲事変以来、軍事予算は膨張を続け、昭和10年度予算では歳出総額の45%にも達していた。是清は軍事予算の抑制につとめ、そのために歯に衣着せぬ軍部批判を議会や閣議で行った。政治家が次々とテロの標的となる時代だったが、是清はもはや身の危険を顧みなかった。それがたたってついに昭和11(1936)年2月26日、二二六事件の凶弾に倒れた。
日銀、大蔵省と長らく金融・財政畑を歩んだ是清だったが、金のみがすべてであるという世相を批判して、こう述べている。
元来、米国人が金銭を尊ぶのは、私の見るところによれば、金銭それ自体を尊ぶというのではなく、かの民族特有の、きわめて強い個人的独立心からきているもののように思われる。この点に十分注意してもらいたい。・・・
友人や知己をたずねて、困るから何とかしれくれないか、とすがりつくが如きが、人間一生の大恥辱となっているから、決してそんなことはしない。どうしても、自分の始末は、自分一個の腕でやっていかねばならぬ。
蓄財の目的は、金を貯める事自体ではなく、独立心を磨き、一身、ひいては、国民全体の品性を高めるにある、と是清は説いた。そのような品性と独立心とを、日露戦争を戦った頃の日本と、その資金調達を支えた是清は豊かに持っていた。(文責:伊勢雅臣)
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