3036 別れの一本松?杉? 渡部亮次郎

ラジオ深夜便を聴いていると、時々吹きだすことがある。
ある日、斉藤季夫アンカーが春日八郎の「別れの一本杉」を紹介する時に「春日さんは郷里の一本松を思い浮かべながら吹き込んだそうです」と言った。
そうしたら次の週、投書があって「斉藤さんは一本松と言ったが、春日さんの郷里は二本松では無いか」と主張。しかし、投書が間違い。春日の郷里は勿論二本松市ではなく、福島県会津西部の中心地 会津坂下町=あいづばんげまち=である。
会津坂下は日本海に注ぐ阿賀川の舟運と、越後街道の宿場として江戸時代から栄えた町。会津若松、喜多方、会津高田、柳津までいずれも3里(12キロ)という地の利が、会津西部の物資の主要な集散地として発展してきた。
大通りに残る老舗の家並みや、裏通りの路地、ひっそりとした寺町のたたずまいに、往時の町の姿を見てとることができる。町内には有名な立木観音や宇内の薬師堂などがあり、町はずれには坂下出身の歌手、春日八郎が歌った「別れの一本松」もある。
越後街道と沼田街道の分かれ道には、かつて心清水八幡宮の門前宿として栄えた気多宮の宿があった。現在も旧郵便局あたりの家並みに、越後と会津を従来した旅人の姿を彷彿とさせる街道の雰囲気が残っている。
若い頃の春日はなぜか出身地を会津若松市と公表していたがが、後に会津坂下町と訂正した。この町からは超有名な作曲家猪俣公章も出た。共に故人。
猪俣未亡人の住んでいた目黒のマンションに私の義姉夫婦が住んでいたが、義兄が2年前に逝去。未亡人となった義姉は近く別のところに引っ越す。
さて「別れの一本杉」は春日の美声で世に出たが、作曲船村徹の出世作であるよりも作詞の高野公男の詞が当時(1955年)の世相にマッチしていたと言われている。高度経済成長で若者が都会に怒涛の如く流入した反面、望郷の歌が望まれたのである。
一、
泣けた 泣けた
こらえきれずに 泣けたっけ
あの娘(こ)と別れた 哀しさに
山のかけすも 鳴いていた
一本杉の 石の地蔵さんのよ
村はずれ
二、
遠い 遠い
想い出しても 遠い空
必ず東京へ ついたなら
便りおくれと 云った娘(ひと)
りんごのような 赤いほっぺたのよ
あの泪(なみだ)
三、
呼んで 呼んで
そっと月夜にゃ 呼んでみた
嫁にもゆかずに この俺の
帰りひたすら 待っている
あの娘(こ)はいくつ とうに二十(はたち)はよ
過ぎたろに
高野公男(たかのきみお)
昭和5年茨城県笠間市生まれ。本名・高野吉郎(きちろう)。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を中退して歌謡界に入り、ともに学んだ船村徹と「流し」や「新聞配達」など苦労しながら活動。
当初はビクターレコード専属の作詞家としてデビューしたもののこれといったヒット曲もなく、鳴かず飛ばずの状態が続いたがもう後がないと思って船村と共に売り込みに行ったキングレコードで春日八郎を担当していたスタッフの目にとまり、春日の歌唱による『別れの一本杉』が大ヒットして一躍名の知られる作詞家となった。
その後コロムビア専属となっても、船村とのコンビで数々のヒット曲を生み出す。高度経済成長時代の当時、田舎のにおいが感じられる公男の詞による曲は集団就職などで都会に出てきた若者たちの心をとらえた。
「あの娘が泣いてる波止場」(三橋美智也)、「早く帰ってコ」「男の友情」(青木光一)など船村徹とのコンビで数々のヒット曲を生み出す。
しかし1955年、『別れの-』のヒットから間もなく公男は肺結核に侵され翌年9月8日、26歳の若さで帰らぬ人となった。
後に彼の生涯は松竹から『別れの一本杉』という題名で映画化された。船村は未だに高野との友情を語る。
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