桜のつぼみがふくらむのに逆らうように、政界はまるで金縛りだ。小沢ショックの重圧、はかり知れない。
民主党の小沢一郎代表が自民党の幹事長に就任したのは1989(平成元)年8月、海部俊樹首相の誕生と同時である。
それ以来、平成の約20年間、日本の政治は策謀家の小沢を主役に、似たような権力ゲームを繰り返してきた、というのが実感だ。次の情景はそのハシリである。
海部は昭和生まれの初めての首相だった。自民党の機関紙「自由民主」最新号の歴代首相インタビューシリーズで、海部は、
「断崖(だんがい)絶壁の上に立って、鷲(わし)の子供が初めて飛び立つような思いでした。下には逆巻く海が広がっている。かつてない強い逆風が……」などと当時の悲壮な心境を語っている。逆巻く海は、党外だけではなかった。
竹下登と宇野宗佑が不祥事で相次ぎ首相を辞任したあと、最大派閥の経世会が海部を担いだ。待機組の安倍晋太郎、宮沢喜一らがリクルート・パージされていたからだ。
無競争はまずい、という声がでて、宮沢派が推す林義郎、反経世会の石原慎太郎も出馬、総裁選を争うことになる。しかし、争う前から勝敗は決まっていた。
3人は何度かテレビ討論番組に出演したが、楽屋の待ち時間に海部はこんな提案をしたという。
「僭越(せんえつ)かもしれないが、私が当選すると思っている。組閣になったら、こうしてせっかく総裁の椅子を争った仲がそれきりというのはおかしい。
どうか同じ内閣に入って協力してもらいたい。この事態のなかで、挙党一致、進まなければならないと思っているのだ」
林、石原は、「協力を惜しむものではない」
と答えた。この前後の経緯は石原の著書「国家なる幻影--わが政治への反回想」(文芸春秋・99年刊)にくわしい。
首相指名の朝、石原の自宅には海部が所属する河本派の幹部、近藤鉄雄らがきて、「きょうは永田町近辺にいてほしい」と海部の意向を伝えた。しかし、待てど暮らせど入閣要請はない。夕方、首相官邸に電話してみると、官邸に入っているのは海部一人で、新しい党三役の小沢幹事長、唐沢俊二郎総務会長、三塚博政調会長たちが党本部で人事の相談中だという。
石原は文学者らしい筆致で、<海部抜き>の異常を書いている。
<思わず大笑いしてしまい、事務所を閉めて帰った。私にはその時官邸で、主(あるじ)となりながら自分の内閣が一体どうなるかをまったく知らぬまま一人きりで座って待たされている海部氏の姿が妙に鮮やかに目に浮かんできたものだ。
海部氏が味わった無力感は、海部氏というより、その後今日まで、国民全体が味わわされてきた、無力で矮小(わいしょう)な日本の政治を表象する予兆でしかなかった>
さらに、石原は、
<その矮小な政治を作り出した元凶の一人ともいえる小沢一郎なる人物が、果たして巷間(こうかん)いわれているほど日本に稀有(けう)なる存在とはとても思えない。私自身、彼と話していて、頭にとまる何らかの印象を受けたことなど、まったくない>
と小沢を切り捨てた。田中角栄政治と対決してきた石原の憤りがにじんだ文章だ。
石原の出版からさらに10年、異常が極まった。来週、どんな区切りがつくのだろうか。(敬称略)
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3058 無力で、矮小な政治 岩見隆夫

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