3060 悲惨な脱北女性たちの生活 古沢襄

1959年から1984年にかけて行われた在日朝鮮人の帰還事業は、社会主義体制のもとで千里馬運動によって急速な復興を遂げていた北朝鮮を「地上の楽園」として、在日朝鮮人に大きな夢を与えていた。この事業を通じて日本側にも日朝国交正常化を進めようとした思惑があったことが否定できない。
ウイキペデイアによれば、帰還者は清津から北朝鮮に上陸し、招待所と呼ばれる施設に一時的に滞在した。歓迎行事の後に経歴書や希望配置を北朝鮮当局に提出し、社会見学に数日を充てた後に、配置先を決める面接を受け、各地に散っていった。帰国事業の最盛期には毎週のように1,000人規模の帰還者が北朝鮮に帰還していたとしている。
日本から北朝鮮に渡った人数は総数93340人。このうち少なくとも6839人は日本人妻や子といった日本国籍保持者だったという。だが帰還事業が始まった頃は、朝鮮戦争の停戦から六年ほどしか経っていない。戦災の影響で極端な住宅不足に北朝鮮は襲われていた。
とくに農村に配置された帰還者たちは「地上の楽園」とは違う現実に直面している。生活物資の慢性的な不足にも悩まされている。この頃、帰還者たちから日本に残った在日朝鮮人に支援を求める声が多く寄せられている。
社会主義体制下の北朝鮮社会にとっては、帰還者たちは朝鮮半島にルーツを持ちながらも、アメリカ風の資本主義の生活を肌で知り、半ば日本化された異質な集団だった。体制への不満・批判に対し不寛容な北朝鮮では、このような行動は手ひどく扱われる原因となったと考えられている。強制収容所に送られた帰還者も多く、消息・安否が不明とされている者も少なくない。(ウイキペデイア)
このような状況下で、北朝鮮から脱出する帰還難民が増加している。オーストラリアで開かれた「第9回北朝鮮人権・難民国際会議」では、再び日本へ脱出した在日朝鮮人は200人以上にのぼっているとの報告が為されている。
日本に帰国することがかなわず脱北して中国に在留している在日朝鮮人もかなりの数にのぼっている。北朝鮮軍に拘束された米ケーブルテレビ局「カレントTV」の女性記者たちは中朝国境で脱北者問題の取材に当たっていた。中国に脱出した脱北者、とくに女性たちの生活は想像を絶する悲惨なものだという。
<20日にオーストラリアのメルボルンで開催された「第9回北朝鮮人権・難民国際会議」では、帰還船で北朝鮮に渡った後、再び日本へ脱出した在日朝鮮人問題が公式に取り上げられた。
オーストラリア国立大学のモーリス・スズキ教授は「1990年代半ばごろから200人以上の在日朝鮮人が、北朝鮮当局の許可なしに国境を越えて日本に定住している。彼らはかつて帰還船で北朝鮮に渡った人たちだ」と語った。
しかし「国連難民高等弁務官室(UNHCR)の統計では、95年から2007年に北朝鮮から2万人が日本に亡命を申請したが、すべて拒否された」という。
日本国内の脱北難民問題は、59年に日本と北朝鮮の赤十字社が在日朝鮮人の大規な移住について協定を結んだことから始まった。
59年から84年までの間に、在日朝鮮人9万3340人が帰還船で北朝鮮に渡ったが、予想とは異なり、故国であるはずの北朝鮮でまともな待遇を受けられず、日本よりもひどい差別を受けて強制収容所に送られた者もいた。
その後、帰還船で北朝鮮に渡った在日朝鮮人の一部はほかの脱北難民と同じように中朝国境を通じて北朝鮮を脱出し、第3国を経て縁故のある日本へ戻るケースが出てきた。
日本政府は正式な難民手続きを経ずに、「特別滞留許可」という形で彼らを受け入れた。スズキ教授によると、「その後、韓国政府と在日本大韓民国民団は“帰還難民”たちが必要な生活必需品を購入できるよう支援金1000ドル(現在のレートで約9万5000円)を与え、就職活動も支援している」という。(朝鮮日報)>
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