3063 カネで転んだ?武田勝頼 古沢襄

NHKの大河ドラマ「天地人」はいよいよ佳境に入った。これを原作によらずに「甲陽軍鑑」で読むというへそ曲がりなことをやっている。
甲陽軍鑑は武田信玄・勝頼に仕えた武将・高坂昌信が書いた実録を甥の春日惣次郎らが書き継いだという説もあれば、甲州流軍学の創始者・小幡景憲の作とする説もあって「作者不詳」の扱いとなっている。
記述内容にも誤りが散見され、歴史書としての史料的価値は低くみなされてきた。しかし堅いことをいわずに戦記物として読む分には結構面白い。愛読書のひとつである。
品第五十四「謙信他界の後 騒動」の項に上杉景勝と景虎の家督相続をめぐる争いがかなり詳しく出ている。謙信他界のみぎり、景勝は春日山の城に立て籠もり、景虎は府中の御館(みたて)に立て籠もった。春日山城から御館の城まで上道で一里半、東道で九里とある。
この時に景勝は二十四歳、武道にかけては利発な大将ゆえ、五智善光寺浜にある”桑取”というところに回り込み、景勝殿は暁に景虎方の北条丹後守の陣に攻め込んだ。景虎殿は北条氏政と結び、氏政は武田勝頼に書状を送って景勝攻めを要請してきた。
甲陽軍鑑によれば勝頼公は氏政の御妹婿であるから出陣の構えをとった。ここで景勝は考えたものだ、とある。勝頼公の重臣・長坂長閑、跡部大炊助は欲深く、万事にわたって賄賂・謝礼を取る噂を頼りに両人に各二千両を届けて助勢を願い出た。
さらに長坂、跡部を介して勝頼公には一万両を進呈し、あまつさえ上杉領の東上野を勝頼公に差し上げると言ってきた。景虎勢に北条、武田が加勢すれば、景勝は滅亡の危機に見舞われる。必死の勝負に出たことになる。謙信公が残した金が役立った。
このあたりは甲陽軍鑑ならではの面白さがある。これで勝頼公はコロリと景勝と和議を結び、景勝と景虎の仲裁役を買ってでた。仲裁は束の間、その年のうちに景虎は景勝に攻められ滅亡している。
それからが、さらに面白い。武田信玄の六女に菊姫という才色兼備の女性がいる。母は油川信守の娘・油川夫人といわれ、勝頼の異母妹に当たる。天正七年(1579)に上杉・武田同盟の証として景勝の下に嫁いだ。
上杉家中は菊姫を甲州夫人もしくは甲斐御寮人と呼んで大切に扱った。菊姫は質素倹約を奨励した才色兼備の賢夫人として敬愛された。甲陽軍鑑には、信玄公御在世の時に一向宗の長島への御婚約があったお菊御料人が、変更されて景勝に輿入れなさった、とさりげなく書いてある。
菊姫は慶長9年(1604)2月16日に上杉家の伏見屋敷で死去。享年42歳だった。菊姫死去の報を聞いた景勝や上杉家の家臣たちの哀惜の有様について「上杉家御年譜」には「悲歎カキリナシ」とある。
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