3065 漢族とチベット族のはざまから生まれた名著『殺劫』①  福島香織

■以前、このブログでも取りあげたチベット族の女流作家・ツェリン・オーセル(唯色)さんの著書「殺劫」の邦訳が夏頃、出版されるそうだ。本当は3月にも出版だったんだが遅れている。この翻訳を担当しているのはやはり私の友人で大阪在住の中国人、劉燕子さん。オーセルさんとは劉燕子さんに紹介されて知り合ったのだ。
■劉燕子さんは、かつては日中両国語文学雑誌「藍・ブルー」(すでに停刊)の編集者。普通中国人の翻訳家は、日本語の本を中国語に訳す仕事が多いが、彼女の場合、中国の良書を日本語に訳す仕事をしている。中国人としてどんな本を日本人に読んで欲しいか、そういう観点で翻訳の仕事を選んでいるという。彼女のこれまでの訳書は劉振雲の『温故一九四二』(中国書店)、廖亦武の『中国低層放談録』(中国書店)など地味だが、これぞ良書というものばかりだ。
■そんな彼女が今、絶賛して勧めるのが『殺劫』なのである。普通の中国人なら国際社会に知らせたくない中国の暗部といえる「チベットの文革」というテーマなのだが、そういう暗部も知ってもらわないと、日本人は中国人を理解できないだろう。お国自慢に偏りがちな中国人が多い中で、多面的な中国の姿を真摯に伝えようとする希有な中国の友人である。
■本作は原作のレビューについては邦訳出版後、改めてエントリーするとして、作者の唯色さんの生い立ちを通じて、チベット問題というものを考えてみたいと思う。
■オーセル一家三大記
漢族とチベット族のはざまで
苦しみ傷つきながらも
新たに生まれるものもある
■「殺劫」とは、そのまま訳せば殺し奪うこと。古典・封神演義では仙人に定期的に現れる「殺人衝動」という意味で使われている。しかし、「人類殺劫(レンレイシャージェ)」という中国語をチベット語の発音にあてはめると「文化(レンレイ)・革命(シャージェ)」となる。これは単なる偶然なのか。
「四十年的記憶禁区、鏡頭下的西蔵文革、第一次公開(40年の記憶のタブー、ファインダーの中のチベット文革、初の公開)」と副題のついた同書は、チベットにおける300枚におよぶ文革写真に写っているチベット族を探しだし証言をあつめた渾身のノンフィクションだ。そして、解放軍幹部の娘であったオーセルさんの人生を大きく変えた運命の書でもある。
■年末年始に北京に遊びにいったときの最後の夜、オーセルさんと彼女の夫、これも著名作家である王力雄氏と一緒にごはんを食べたのだが、そのときに、この「殺劫」を書く背景をきいた。
それは彼女の祖父母の時代にまで遡ることになる。
■オーセルさんは生粋のチベット族ではない。4分の1、漢族の血が入っている。彼女の祖父は国民党軍某部隊中佐副官兵であった。
■オーセル「おじいさんはね、国民党軍の逃亡兵なの。重慶市江津区から1935年、チベット・カムのデルゲ(四川省徳格)地域に逃げてきた。そこで美しいチベット娘を見初め、結婚した。おばあさん、そのとき16歳だったのよ」
■果たして、それが運命的な恋のロマンスであったのか。ただ祖父には重慶にすでに漢族の妻がおり2人の娘までもうけていたにもかかわらず、そのまま祖母とも3男3女をもうけ、チベット仏教に帰依して生きることを選んだのだった。
■オーセル「2人が結ばれて20年後(1953年?)、祖父は祖母をつれて一度だけ重慶にもどって、前の奥さんとも対面したけれど、結局祖母が漢族地域で暮らすことを嫌がったので、二人して再びチベットに戻ったの。たぶん、祖母が男の子を生んだから、祖父は祖母の方を大切にしたのだと思う」
■その待望の男の子、長男のツェリン・ドルジェがオーセルさんの父。写真にのこる精悍な風貌はカムパの若者のそれであるが、正確にいえばチベット族と漢族のハーフだ。
オーセル「父は1950年、13歳のときに共産党軍の少年兵になった。それは祖父の強い希望だった。これからは共産党の時代だからというのが祖父の口癖だったから」
■毛沢東は「チベット同胞を帝国主義の圧政から解放する」という名目で、1950年、人民解放軍のチベット侵攻を開始したが、その道中、数百人のチベット兵を招集する。その多くは勇猛果敢なカムパの若者だった。
そのころの中国共産党は民族自決の原則を掲げており、共産主義に共鳴するチベットの若者は少なくなかったのだ。5000㍍以上の峻厳な山々が連なるチベット地域の行軍は、このチベット族コミュニストたちの道案内や後方支援がなければ到底成功しなかった。
■オーセル「チベット語と漢語の両方を流暢に話せる父のようなチベット族はとても稀少で、父はトントン拍子に出世したのよ」。
ツェリン・ドルジェは党によって西南民族学院に進学させてもらい、1956年にはチベット軍区選抜の唯一のチベット族士官として北京の建国記念式典に出席。毛沢東、朱徳、周恩来、劉少奇と直接会ったエリート中のエリートである。
■1965年、ツェリン・ドルジェは20歳で結婚する。相手はシガツェ出身の旧貴族の14歳の美しい娘だった。オーセルさんはいつも「母はすごい美人」といっていたが、彼女のブログにある写真をみると、確かにエキゾチックな彫りの深い顔に独特の気品ただよう美女だった。
オーセルさんの母親の父親、つまり母方の祖父は、旧チベット政府の閣僚兼チャムド総督であったラルの腹心として、その命をうけ、タルツェド(四川省康定)で商売をしながら、諜報活動を行っていたという。そういう人物の娘が、解放軍のエリート士官と結婚するというのも、数奇な巡り合わせかもしれない。
■このラル氏は1959年、共産党軍と戦った反乱軍の副司令官でもある。彼は1965年に釈放されたのち、文革終了後は鄧小平氏の福利政策で、チベット自治区政治協商会議副主席にまでなった人物。1980年ごろの鄧小平は、宗教的理由や大地主、貴族として迫害をうけたチベット族の名誉回復、地位向上などを積極的に行うことで、チベット族を懐柔しようとしていたのだ。まだこのころは。
■その旧貴族のお姫様の血筋であったオーセルさんの母親は、中国共産党チベット幹部養成の学校に通っていた。しかし旧貴族出身という出自からすでに「思想上の重荷」を背負っていたという。
■1966年7月、オーセルさんは生まれた。ツェリン・オーセルという名前は「恒久の光」という意味だ。しかし、彼女はもう一つ、中国名をもっている「程文薩」。文薩とは文革のラサという意味だった。文革のはじまった年、ラサで、解放軍チベット族幹部と旧貴族のお姫様の娘として生まれたオーセルさんの写真の胸には毛沢東バッジがついている。
■オーセル「娘の目からみて、父は模範的な共産党幹部でした。毛沢東思想を誰よりもよく理解し、毛沢東への忠誠も強かった。しかし、父の心の中にはチベット仏教への強い信仰もあった。ダライ・ラマを尊敬していました。大きくなるにつれ、父の葛藤がわかるようになってきた」
■オーセル「父は、文革でチベット仏教寺院が破壊されたり、僧侶が迫害されることに耐えられなかった。あとでわかったことだが、その様子をこっそり大量に写真にとっていた。それは、ばれればただですまない行為」
■そんな葛藤もあって1971年、父・ツェリン・ドルジェは軍内部のトラブルがもとでラサを離れざるをえなくなり、一家はカムのタウに移住する。
■父、ツェリン・ドルジェは人民武装部副部長の任についた。母親は思想的に問題があるとして要職にはつけず、新華社書店で本を売っていた。オーセルさんは母の職場で本をいくらでも読むことができたという。もっともこのときの本といえば革命書籍ばかりだった。おかげでオーセルさんは、順調に革命思想に学び、小学校低学年のころは「毛沢東思想宣伝隊」の小さな女優でもあった。母親似の美少女だったのだ。
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