3066 漢族とチベット族のはざまから生まれた名著『殺劫』②  福島香織

■一家が再びラサに帰ってきたのは1991年。父はこのときラサ軍分軍区副司令官。その年、父は突然病に倒れて他界した。オーセルさんはこのとき、父の遺品として大量の写真を受け取った。
それは、父が共産党軍幹部という立場と、チベット仏教への信仰の中で苦しみつつ撮影した、文化大革命中のチベットの現実だった。破壊される寺院や仏像。三角帽をかぶせられる僧侶。いくら軍幹部といえど、文革中にこのような写真を私的に撮影し、所持していたことがばれれば危険だ。
■しかし、オーセルさんにとっては大切な父の遺品。そして、チベット族と漢族のハーフという血と、2つの民族・文化の間にあって危険を冒しながら撮影した写真にこめられた、父の思いを無碍にすることもできなかった。
■当時、オーセルさんは、西南民族学院で中国語文学を専攻し、卒業後は地方紙『甘孜州報』の記者をへて、一九九〇年にはラサの『西藏文学』の編集者となっていた。共産党軍幹部の子女としてよい学歴とよい仕事を得ていた一方で、父の葛藤はオーセルさんのものとなっていた。
オーセルさんの書くものには、チベット文化やチベット仏教への尊重、ダライ・ラマへの敬慕がにじむようになってきた。やがてそれがオーセルさんが職を失う原因となるのである。
■2003年にオーセルさんが広東省の花城出版社から出版した「西藏筆記(チベットノート)」は、中共中央統一戦線部と中央宣伝部に「重大な政治的錯誤がある」として発禁処分になった。そしてオーセルさんに対し、チベット文学聯合協会(文聯)は次のような見解をまとめる。
■「『西蔵筆記』は宗教の社会生活における積極的な役割を誇張し、美化し、一部の文章ではダライ・ラマへの崇拝と敬慕が表現され、ひいては狭隘な民族主義や、国家統一と民族団結に不利な認識を表明した文章さえある」
「不確かなうわさ話で旧チベットへのノスタルジーに耽溺している。従って、価値判断を誤り、政治原則から乖離し、一人の作家として担うべき社会的責任と先進的文化を建設する責任を放棄した」
■オーセルさんは、連日、精神的拷問ともいえる思想教育を受け、自己批判をせまられ、さらには踏み絵として青藏鉄道を美化する文章を書くことをせまられた。しかし、彼女の目には青藏鉄道はチベット文化を破壊するものとしか思えない。どうしても同意できず、これまでの身分を捨てラサを離れる決意をするのだった。その決意をしたためた手紙を文聯に送っている。
■「(前略)私にはこのような踏み絵を踏むことはできません。踏みたいとも思いません。この踏み絵は作家としての天職と良心に背くものです。たとえラサに残り、受けたくない『教育』を受けても、何の結果も出ません。みなさんに必要のない迷惑をおかけしますし、文聯も上級機関に復命できません。ですから、私はしばらくラサを離れ、他の土地で最後の行政処分を待つことが最善だと考えました。私は自分が決めたこと一切に責任を持つつもりです」
■オーセルさんはこの後、辞職。今にいたるまで、思想上に過ちがあるとして当局のブラックリストにのり、パスポートを申請しても許可がおりず、何かあるたびに軟禁状態におかれるようになるのである。
■一方、この事件が発生する前のこと。父の遺品の写真の取り扱いにからみ、オーセルさんは重大な決断をしていた。
オーセルさん「父の写真をどうすればいいか、悩んでいました。そんなとき、王力雄という作家のことを知りました。私は彼に会ったことがなかったけれど、その作品を通じて勇気と才能のある作家だとわかりました。それで、彼に写真を託すことにしたのです」
■王力雄氏は1991年に、中国の内戦と再生を描いた『黄禍』を保密のペンネームで著し当時予言小説としてベストセラーになっていた。もちろん国内では発禁処分だが香港で出版された同書は、海賊版が地下ででまわり、たいていの知識人が読んでいる。
1998年にはチベット問題をテーマにした『天葬』で国内外で高い評価を得ており、オーセルさんが、彼に写真を託す決心をしたのは、同作におけるチベットの理解の深さであったという。1999年、王力雄さんはオーセルさんから郵送された大量の写真を受け取った。
■このときのことは王力雄さん自身が、2006年に台湾で出版された『殺劫』の序文に書いている。
一九九九年の暮れも押しせまったころ、オーセルから郵便物が届けられた。その中には数百枚のネガがあった。そのとき、私たちはまだ会ったことさえなかった。
 彼女は手紙で、次のように説明していた。
「このネガは一九九一年に亡くなった父親が文化大革命期のチベットを撮影したものです。非常に重要なものだとは分かりますが、どのように使えばよいのか考えつきません。あなたには一度もお会いしたことはありませんが、チベットについて書かれたものを読み、このネガを有効にお使いいただけると信じ、寄贈いたします」
私は手袋をして、明かりの下でネガをよく見た。そして、すぐに結論を出した。私はこれを受けとれない。何故ならば、あまりにも貴重すぎるからだ。
■王力雄「私は彼女に、あなたが書くべきだ、漢族ではなくチベット族のあなたが書くべきだ、と手紙を出した。この写真に写っている人たちを探し出して、話を聞き、チベットの文革を検証する。それがあなたの仕事だといったんだよ。そのために、私も手伝うと」
■王力雄の言葉に励まされて、オーセルさんは、この困難な仕事に取り組む決心をする。おそらく、オーセルさんの運命を大きく変えた「西藏筆記」の出版も、王力雄氏の作家としての姿勢からうけた影響や「殺劫」の取材経験から得たものが大きかったのではないかと思う。
■約6年の取材をへて『殺劫』は書き上げられた。オーセルさんは代表作を手にいれ、王力雄さんは美しく聡明なチベット族の妻を手に入れた。2005年二人は結婚する。
■このいきさつを思うと、チベット族作家ツェリン・オーセルを育てあげたのは漢族作家の王力雄さんといっていいだろう。『殺劫』という作品は、チベット族と漢族のハーフであるオーセルさんの父、その娘のオーセルさん、そして漢族の王力雄さんの共同作品ではないかと思う。
民族の違いをこえて、あるいはその狭間にあって、文革、宗教や文化、自由や民主について取材し思索し悩み、最後には人類共通の価値観を浮き彫りにした貴重な試みであり、答えではないかと思う。
■私は、前にも言ったけれど、チベット独立を支持しているわけではない。ダライ・ラマ14世が、多くのチベット族の独立への希望を背負いながら亡命したにもかかわらず、結局、独立をあきらめざるを得ないと決断したことについて、英断だと思っている。
チベット問題を単に漢族VSチベット族の対立と憎しみの問題にしてしまうと結局は流血という答えしかでてこないだろう。それは避けるべきだ。
■チベット族が文革でうけた苦しみは、じつはチベット族以外の民族、漢族もなめた辛酸である。伝統と宗教・文化の破壊も、すさまじい飢餓も不条理な迫害も漢族自身が経験しているし、迫害を受けている漢族は今もいる。
ただ、それがチベット族の上におこれば民族問題となる。それは、チベットが世界的な時代の節目の中で、中国共産党に侵攻され併合された複雑ないきさつと、その後の統治プロセスにおける幾度かの重大な過ちのせいだろうと思う。
■民族問題はどこの国でもあり、その解決はその国の政府自身が過去の民族政策の問題点を洗い出し、認め、改善する以外ない。しかし、その前に民族にも関係なく、あるいは国籍も関係なく人類が共通して求めねばならない価値観というものがある。
それが、自分の思っていること、信じることを素直に表現するということ。言論の自由である。その言論の自由をもって、初めて歴史や過去の政治・政策の検証がかなう。
■オーセルさんも、王力雄さんも、そして同書の翻訳を、中国当局の嫌がらせをうけながらもやり抜いた劉燕子さんも、ものを書く者の良心を全うして、ひとつの歴史の検証をやりとけが。つまりオーセルさんの父が見たチベットの文革というもの実像に迫った。
それはチベット族、漢族という枠をこえて言論の自由を尊ぶ者同士が協力して行った価値ある作業だ。結局、チベットの独立にせよ自治にせよ、よりよい解決策というのは、ひとりひとりが自らが誰にじゃまされることなく検証したり議論したり、その過程を発表したりできる言論の自由。それを獲得したいと願うことから始まるのだと思う。
■またもや、長々書いてしまった。最後まで読んでくれた方お疲れ様でした。これは読者のために書いたというよりは、自分の取材メモや感想を思いつくままに書き留めたようなものなので許してほしい。こんなふうに自分が出会った人、聞いた話、読んだ本から受けた感銘を誰にじゃまされることなく語れる自由というのは本当にいいね。
■オーセルさんの父母、祖父母の写真は彼女のブログで公開されている。中国語を読める方はどうぞ。
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