私は一人の優れた男に影響を与えるのは母親だという独断と偏見に近い見方を持っている。逆に優れた女性に影響を与えるのは父親ではないかと思う。あまり科学的な見方ではないという批判は甘んじて受ける。
歴史上の卓越した人物について、過去は男社会だったから母親の存在に焦点を当てた記述が少ない。系図上は「女」と記載されているのがほとんどである。
最初に、それに気づいたのは北一輝の存在であった。北一輝の人なりを追い求めると父親の北慶太郎は地方ならどこにもいる酒造家、佐渡湊町屈指の分限者の生まれだが、初代両津町長を務めたものの思想家・北一輝に与えた影響はほとんど認められない。
母親のリクは新穂村の本間家の出である。有名な本間一族の血が流れている。リクの弟・本間一松は佐渡随一の理論家といわれ新潟県議となった。リクのいとこは佐渡政友会の闘将・高橋亀吉。
リクは北一輝が幼い頃から、寝物語で承久の乱で佐渡に流された順徳帝や日野資朝の悲劇を語って聞かせている。このことは二・二六事件に連座して憲兵隊調書の陳述に出てくる。父親についてはほとんど触れていないが、リクに対する敬慕の念が滲みでている。
戦国の世で真田幸村ほど知略に優れた人物は少ない。幸村にはお田の方という娘がいた。大阪夏の陣で幸村は討ち死して孤児となったお田の方を兄の信之が哀れみ、手元に引き取って育てている。後にお田の方は江戸城大奥に仕え、十五、六歳の少女だったが、幸村の娘として気高く、気品を備えていたという。
このお田の方は数奇な星の下に生まれている。その祖母・一の台(秀次夫人)は秀次を断罪した秀吉によって三条河原で処刑されている。母・隆清院は仏門に入って両親の菩提を弔っているが、幸村と結ばれて一子・お田の方を残した。
このお田の方を見染めたのは、佐竹義宣の実弟である多賀谷宣隆。二〇歳で嫁し、やがて東北の亀田藩主・岩城重隆の母として”賢母”の名を残した。
子の重隆に対する訓育に厳しく、書や礼儀作法、武芸に至るまで自らの手で教えている。宣隆の死後、顕性院と称したお田の方は、亀田に顕性山妙慶寺を建立している。岩城重隆は亀田藩主として名君といわれている。
幸村の血がお田の方に流れ、さらには岩城重隆に伝わったのを見ると、血脈が父親から娘に伝わり、孫に当たる岩城重隆で開花したと思わざるを得ない。これは、ほんの一例なのだが、優れた母親の存在は無視し得ないものがある。
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3067 優れた男に影響を与えるのは母親 古沢襄

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