3083 同期生529人の73歳 矢野恵之助

秋田県立秋田高校(創立明治6=1873年=9月1日)の1954年度の卒業生は男女あわせて(女子は第1期生)529人と膨大。すでに100人以上が黄泉の国に旅立った。
旺文社を経て永らく日本英語検定協会の専務理事をしていた大釜茂璋が胆管腫瘍を手術すると言う前の晩、渡部亮次郎から電話がきて、先に亡くなった大映テレビ・プロヂューサー柳田博美に対する小生の追悼文を改めて読み,落涙したといいつつ、大釜の手術に一抹の不安をひしひしと感じさせる電話だった。
大釜は術後初の検診(3月25日)の結果、順調な回復が確認された。外科の処置は、病巣が悪性のものでない限り、傷が治れば「ハイそれまでよ」。何にしても大事でなくて何よりだった。
私の前立腺癌は薬が効いて4週間でほぼ治った。ホルモン抑制によって閉じ込められて癌が縮んでしまった、ということだ。だが両手に奇病が現れて往生している(後述)。
先月,船木克己と一緒に秋田市郊外にある障害者施設に同期F君を訪ねた。まだ若い30代の後半に脳梗塞で倒れ、以後,半身不随となりました。3年の時はE組、卓球の選手だった。
彼は毎年,同期会の案内に「行きたいけど,足も金も無い」と返事してくるので、ずっと気になっていた。
面会を求めて待っていると、車椅子に乗ってきたFが私を見るなり「おぅっ やのぉ」と叫んだ。会うのは55年ぶりなのに私のことをちゃんと覚えていてくれた。
左半身の自由はダメだけれど、頭ははっきりしていて、手紙も書ける、とのこと。
「お前、本当に同期会に行きたいか」
「行きたい、皆に会いたい」
「じゃぁ、決まりだ。迎えに来るし、会費は心配するな」。
彼は少し涙ぐんで4月の会を楽しみにしていると言って別れた。当日は私の長男が車椅子ごと送迎してくれる事になっている。
それから10日ほどして、自宅近くのスーパーの前に自転車で信号待ちをしていると隣に電柱に寄りかかっている男がいる。よく見ると3年のときおなじB組にいたHでは無いか。
秋田大を出て教員になり最後は秋田市内最大の中学校の校長だった。同期会には全然出てこない。「なんだお前、電柱に掴まらないと立ってられないのか」
「そうなんだ」
数年前から腰と首をやられ、手術で背中に4本も金属が入っている。それが痛みになって歩くのが困難。しかし歩かないとダメといわれて、こうして静かに歩いている、とのこと。
歩きながら突然「オレ、困ったよ、女房が1月に死んでしまって・・・」と絶句した。
昨年の秋には2人でスーパーで買い物をしていた。奥さんからは「そのうちに遊びに来てください」と声を掛けられた。だが直後にどこかは聞き漏らしたが、癌が見つかり入院したがあっという間に亡くなったとのこと。
明日三十五日という土曜日に焼香してきた。郊外に嫁いでいると言う娘さんが孫を連れて来ていた。
「お前、炊事はどうしている?」と聞いてびっくり。奥さんは8歳下だったので、自分が先に逝っても大丈夫なように、おそらく退職金で家を改築。下宿屋を始めていた。
なるほど、2階に4部屋が並んでいる、そろって賄いをやっていたから独りになっても炊事は大丈夫とのことだが、なんだか理由と経緯を聞くと悲しくなる。
息子は東京にいるが40過ぎて独身との事。「オレ、ウツになったよ」と言うのも無理はなく、なんともやるせない思いになった。
息子に「親父、葬式はなんとかするから家の解体費は残して死んでくれよ」と言われた人生もある。空き家が異常に増えている。
わたしの指は「ヘバデイーン結節」という奇病で第一関節が変形してきて強烈な痛みが走る。治療法がなく、痛み止めの薬を塗って引っ張るだけ。パソコンを叩く力が残っていないので亮次郎にはFaxでもしてやって欲しい。
私の企画した旅行会纏まる。夫婦7組含む25人。5月7日から姫路―赤穂―出石―城崎-天橋立計2泊3日。配偶者の病気で参加できないメンバーもある。
広島から加茂夫妻,、一宮から藤本、東京から山田珠子、姫路の夕食会には豊田武子、伊藤勲が参加と言う賑やかな一団。
註 渡部亮次郎=私宛の手紙を発信人の了解を得て公開します。
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