高校の時、作文で95点を貰ったことがある。雪国の秋田で遅い春の到来を忍耐強く待つ辛さと楽しさを綴ったものだった。秋田の春は温暖化で多少早まったろうが、桜の開花はそれでも東京よりは一月遅れである。角館の枝垂れ櫻はもっと遅い。
何しろ、子供のころは、秋10月から鉛色の曇天が続き、11月と共に霙(みぞれ)の季節となる。農家の軒先は吊るした干し大根で真白。干し柿は無い。水稲単作地帯だから柿の木は存在しなかった。
12月に入ると初雪が舞い、やがて根雪になる。10歳未満の児童は一斉に霜焼にかかる。主に手足の平が軽い凍傷にかかり皮膚が破れる。夕方、気温が下がると痛みが酷くなる。泣いた。よく覚えている。傷跡が両手足にケロイド状に残っている。今ならビタミンEを補給すれば簡単に治るそうだが、あの頃はビタミンEすら未発見ではなかったか。
国民学校では「初日の出」と言う言葉を習った。元日の日の出と言うが、秋田で元日に日の出る事はあり得ない。「先生は嘘を教えちゃいけない」と文句を言ったら親父が先生に呼びつけられ、理屈のきつい子だと怒られた。親父は喜んでいた。
秋田の冬は寒いと言っても氷点下5度ぐらいが限度。長じて暮した背中合わせの岩手県の盛岡市ではマイナス10度はざら。目覚めると掛け布団の襟が凍っていたっけ。
しかし秋田がそれより暖かと言っても油断はならない。盆地の盛岡市は夜、月が出て風も吹かないが、秋田ではシベリヤからの強烈な北風が吹き続けた。小学校(戦争当時は国民学校)3年までは下校時、吹飛ばされて小川によく転げ落ちた。
戦争当時は輸入と言うものが全く途絶えたから、東南アジアからのゴムの輸入が無くなった。雪道を学校まで4キロを通うのにゴム長が無い。再生ゴム長は3日で破れた。
仕方が無いから日露戦争でラッパ手だった爺さんが編んでくれた藁靴で通った。暖かくなったら雨の日は裸足で通学した。足の底が飴色のゴムのように固くなったっけ。
藁沓を編む爺さんの手許を見つめているうちに、子供ながらに編み方を覚えてしまった。親父は編めなかったので私が兄弟たちの分を編んだものだが、東京に出てきたら綺麗に忘れた。
当時はテレビは勿論、ラジオでも天気予報と言う情報はなかった。天気こそは国家の最高機密だから予報は公開されなかった。まして戦争末期,大都市へのアメリカの空襲が始まると、益々、予報は秘密にされた。
私の生まれた農家は葦葺の家。近くの八郎潟を渡って吹雪が叩きつける。薪ストーブを真っ赤になるまで薪を燃やして冬の過ぎるのを待つしかない。戦争中とて、つける薬も皆無だから霜焼はふさがれないまま、耐えるしかなかった。
予報がないから、春の音は霜焼の痛さで感じ取る以外になかった。
それが3月に入ると雪が止んで、太陽が大げさにいうと半年振りに顔を出す。何十センチもあった根雪が見る見る融けていく。道路のが融けて、田圃ふぇも融け始める。道路はやがて乾き藁草履で歩けるようになる。心が歓喜で躍る。これを待つために雪に耐えてきたのだ。霜焼は完治していた。
当時、秋田の田圃までマスコミは届かない。だから4月末になって櫻が咲くと、日本中がやっと春になったと思ったが、長じて東京では既に一月以上前に花見が終わっていたと知って、自分の生まれ育ったところが、飛んでもない片田舎である事を思い知らされた。
東京へ来てみると、太陽は冬ほど多く照る。テレビが「秋田沖に低気圧があって日本海岸は雪」と言っているとき、東京は快晴である。
少年時代、曇天、霙、吹雪の半年。霜焼、皸(あかぎれ)で痛めつけられた少年時代は大変な損害だった事を思い知った。
高校の同級生の一人が秋田から冬晴れの東京にやってきて、子供たちの帰りたがらない謎が、この晴天にあると納得できたと呟いた。
いで はくは千 昌夫に「北国の春」で白樺 あおぞら 南風と唄わせ、お袋から届いた小さな包みが山菜であることを示唆している。
誠に躍動する北国の春を謳いあげているが、あれはどうも「いで」の郷里の長野県の春で東北の春では無い。
95点をくれても秋田の冬には帰りたくない。73歳。掌に残る霜焼に目をやりながら「北国の遅すぎる春」に思いを馳せている。
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