●はじめに
藤枝梅安と白子屋一味の凄絶な死闘の最中、池波正太郎先生が不帰の人となり、絶筆となってしまった(平成2年1990)。それから早くも20年になろうとしている。駒光なんぞ馳せるがごとき。
ファンとしてはその後の四人のドラマを知りたいものである。四人とは言わずもがな梅安、彦次郎、小杉十五郎、そしておもんである。
誰かが続きを書いているかとネットで検索したが、残念ながらヒットしなかった。それなら暇にあかせて自分でやるしかない、ニーズはあるだろうと、できる限り池波先生の文体を真似て創ってみた。お目汚しでしょうが、どうぞご笑覧を(参考:ウィキ)。
<池波正太郎(いけなみしょうたろう) (1923―90)
小説家、戯曲家。東京・浅草生まれ。下谷(したや)区(現台東(たいとう)区北部)西町小学校卒業後、株屋に勤め、第二次世界大戦後、都庁に勤務するかたわら新国劇のために、『鈍牛』『檻(おり)の中』『渡辺崋山』『剣豪画家』などの戯曲を執筆。」
のち、長谷川伸(しん)に師事。1960年(昭和35)『錯乱』で直木賞を受賞。77年には、『鬼平(おにへい)犯科帳』(1967~89)、『剣客商売』(1972~89)、『仕掛人・藤枝梅安』(1972~86)などの連作を中心とした作家活動に対して吉川英治文学賞が贈られた。
『真田騒動――恩田木工(おんだもく)』(1956)、『錯乱』(1960)、『真田(さなだ)太平記』(1974~83)など、真田一族への関心を示す作品もあるが、浅草に生まれ育った庶民感覚と戯曲で鍛えた会話の妙味を生かした世話物の短編集『おせん』(1978)に真骨頂がある。1988年、菊池寛賞を受賞。没後、『完本 池波正太郎大成』(全30巻・別巻1)が刊行された。 [執筆者:磯貝勝太郎]>Yahoo百科事典
●これまでの経緯
大坂から京都にかけての香具師の元締、白子屋菊右衛門と藤枝梅安との間の、最初は小さなほころびが次第に大きくなって、抜き差しならぬ対立となってしまった。金で殺しを請負う末端の仕掛け人が、依頼人である「蔓」(つる)に歯向かうなどというのは、(・・・到底許されぬ・・・梅安め、増長しおって・・・)白子屋菊右衛門としては腸(はらわた)が煮えくり返る思いであった。
闇社会には闇社会の掟、定法がある。「舐められたら終わり」で、ここで梅安を始末しなければ白子屋菊右衛門の一分が立たない。威令が行き届かなければ、闇社会の笑い者なる。
ましてや江戸進出を狙っている今、梅安への報復をしくじればすべての計画が頓挫しかねない。面子は命を掛けて守らなければならないのが白子屋菊右衛門たちの生きる闇社会の道理だ。
白子屋菊右衛門にとって江戸進出に当たっての目の上の差し障りは、小石川一帯を縄張りとしつつ江戸闇社会に隠然たる力を持つ音羽の半右衛門と、我が意に逆らう梅安はなんとしても処理しなければならぬ案件だった。
白子屋は梅安の命を狙って矢継ぎ早に仕掛け人を差し向けてくる。堪忍袋の緒が切れた梅安は捨て身で白子屋の江戸における拠点、神田明神下の旅館「山城屋」を疾風のように襲撃し、遂に白子屋菊右衛門を仕留めることを得た。
しかし・・・
大阪における白子屋の腹心で、白子屋亡き後の実質的な後継者である切畑の駒吉は、己の地位を確かなものとするためにも白子屋菊右衛門の仇討ちをしないわけにはいかない。それを成し遂げてこそ闇社会のすべてに「二代目」を認めさせることができるのだ。
梅安を暗殺しようと切畑の駒吉は新手の刺客を次々と江戸に送り込み、凄絶な諜報戦と死闘が繰り広げられた。ここで池波先生絶筆。
●死闘の果てに
切畑の駒吉によって江戸に送り込まれた刺客浪人、三浦十蔵、平尾要之助は、ともに梅安襲撃に失敗して深手を負い、その治療をしつつ再起を期していたが、療養期間が半年にもなり、江戸市中ではいやでも目立ってしまうことになる。
二人は切畑の駒吉の手配により、一応は大名の家来の使用人、いわゆる陪臣(またもの)という身分資格で下屋敷に暮らしていたが、三度の飯には困らないとはいえ、楽しみは博打と喧嘩という、およそ食いっぱぐれたやくざな中間が巣食う、これ以上ない「陋巷」だけに、三浦と平尾はすぐに飽きてしまった。
結局、駒吉に無理を言って下屋敷を出て長屋に移ったのだが、これが致命傷になった。
江戸の八百八町は相互監視社会だから、ひとつところに仕事もせずに浪人がぶらぶらと住み暮らしているのでは怪しまれるのである。
番小屋がある、木戸がある。下引、岡引、同心など治安機関が日常茶飯でうごめいている。
それを知らぬ切畑の駒吉ではないから、あちこちに住処を用意したものの、切り傷を受けた三浦十蔵は木挽町の外科医、一新堂東安へ、骨折した平尾要之助は馬喰町の西川施療院へ通うから、住処もその近辺にならざるを得ない。
結局は、音羽の半右衛門の諜報網に引っかかり、三浦十蔵は治療の後に日本橋東の八重洲口、新銭座で講談を聞いている最中に半右衛門の放った刺客、「花見のお吟」に後ろから細身の匕首を一突きされてぐりっと刃を回されたからたまらない、ほぼ即死だった。これが嘉応元年師走十二月の初め。
平尾要之助は三浦十蔵暗殺の報を受けてから息を殺すように逼塞していた。仕掛け人が仕掛けを恐れるというのは、実は末期である。
この間、音羽の半右衛門はまったくといってよいほどなりを潜めている。数多くの修羅場をくぐっているから喧嘩(でいり)の壷を身につけている。駒吉のみならず平尾も、三浦を仕掛けたのは梅安だと思ってまったく半右衛門は眼中になかった。
ある日。平尾は間諜から梅安がここひと月は品川台町の自宅に帰っていないことを知ると警戒を緩め、無聊を慰めようと切畑の駒吉の抱える駒の一人、半右衛門から寝返った間諜の「おしま」を誘って愛宕山へ花見に出かけた。おしまの女ならではの心変わりについてはすでに触れた。
その花見の帰路、平尾は急な石段から何者かによって突き落とされ、頭を割ってしまった。頭を割られてから転げ落ちたとおしまは思っているが、いずれにしても即死だった。
半右衛門の恐ろしさを知っているおしまはその足で失踪、以後、消息はほぼ絶えた。三島で女郎をしていると風の便りがあったきりである。
仕掛け人がまっとうな末路を迎えるはずもないが、三浦、平尾とも剣客としてはいささか淋しい最期だった。いずれも音羽の半右衛門の指令による緻密で用意周到な仕掛けだったが、海千山千の切畑の駒吉でさえもそこまでは思いもよらなかった。駒吉にとって梅安は必ず始末しなければならない敵であり、三浦、平尾への反撃はすべて梅安によるものと思っていたのだ。
切畑の駒吉は白子屋菊右衛門の右腕ではあったが、菊右衛門は江戸進出の最大の障害は最終的には音羽の半右衛門になるだろうとは思ってはいたものの、当時の半右衛門は「半分隠居している元香具師の元締」だから、縄張り(しま)については結局は「売り物、買い物」で金で解決できると踏んでいたのだ。これが闇社会の当時の決まりだった。
そもそも音羽の半右衛門は白子屋の江戸進出に半畳を入れたことはなかったし、それどころか白子屋が神田明神下に拠点の旅館「山城屋」をつくる際に半右衛門は便宜を払ってくれたのだから、切畑の駒吉には油断があった。
うかつにも音羽の半右衛門の疑心と反発を軽視したのだ。ここに切畑の駒吉の隙と誤算が生じた。
音羽の半右衛門の心の底は切畑の駒吉にも分からないし、藤枝梅安も実は知らない。おしまの裏切りを一瞬で読み取って「悲しい目で」突き放した半右衛門のすさまじさは、われわれが想像もできない修羅場を半右衛門がくぐってきたことを示唆しているだろう。半右衛門の心の闇は筆者も遂に分からずじまいだった。
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3096 その後の四人 仕掛人・藤枝梅安(最終篇)① 平井修一

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