松本竣介が三十六歳の若さで亡くなる半年前の葉書が発見された。旧制盛岡中学の先輩で漫画家の岸丈夫に宛てたものである。書き出しは「喘息の方はその後出ませんが、疲れやすくて思うままに動けません。稼ぐのに追いまわされてヘトヘトです」と体調の悪化を訴えている。昭和二三年一月二五日の日付である。
松本竣介の油絵は強靭で透明な画風を基調にして、清潔な叙情の世界を繰り広げたものとして声価が高いが、そのエッセイも『雑記帳』に見られるように濁りのない純粋な美しい第一級の作品を遺した。
葉書は几帳面な性格をそのまま表す細かい筆致でビッシリと書かれているが、何よりも終戦後二年半の東京の姿を簡潔な文言で淡々と伝えた内容の確かさと「体裁だけはなんとかなっていても、内はカラッポな、なんとも言えない世の中で何をするにもてんで筋道なんかないようです」と冷徹な眼で世相を見据えた言葉は松本竣介の面目が躍如としている。
「近いうちにお訪ねしたいと思っています」と結んでいるが、残念なことに病状が悪化して果せなかった。
岸丈夫のところには秋田鉱専(現在の秋田大学)出身の画家と新劇俳優の卵が出入りしていた。一人は後に水彩画で独自の境地を切り開いた小角又次で、もう一人は劇団『銅鑼』の主催者になる新劇俳優の森幹太である。
漫画家になる前に油絵を描いていた岸丈夫は小角又次に本格的な絵を描くならまず造形の勉強をするように薦めている。とは言ってもいたる処に焼け跡が残り、食うに追われて混乱していた当時では、造形の材料になる石膏が手に入りようもなかった。そこで岸丈夫は松本竣介に入手の方法がないか問い合わせた返事が松本竣介の葉書になったわけである。
岸丈夫から松本竣介の葉書を見せられた小角又次は、その葉書を貰い大切に保存した。 小角又次は岸丈夫から絵画の技術的な手ほどきは受けていない。だから絵の弟子というのは当たらないであろう。しかし芸術を志す高い理想と精神だけはみっちりと教えを受けた。
岸丈夫が目指した高い理想と精神とは何であったろうか。昭和一〇年に岩手県出身の作家・八並誠一らとともに興した同人誌『かぶとむし』に三枚の風刺的漫画を載せたが、その第三輯に「漫画雑感」というエッセイを書いて、自ら目指したものを示した。それが次の一文である。
・・・今の漫画はある種の売薬に似ている。毒にも薬にもならないようなものである事はこの国の漫画家の一端にいる者として、あまり誇りには思えない。
漫画は単なるクスグリや低劣、下品な笑いであるべきでない。今の世に氾濫する各種の漫画と称するものの殆ど全部がそれに近いものである事は賞むべきではない。まして、そのジャーナリズム線上のたいこ持ち的な存在であったり、埋め草的分野に安住するかの如くであってはならない。
近代印刷術の発達と相俟って漫画と漫画家の製産された数は夥しい、漫画はジャーナリズムの波に乗った、同時にジャーナリズムに依存し過ぎた結果として、ある種の売薬的な面貌を呈するような事になったのである。
漫画本来の使命的役割とも言うべきものは効き目のない売薬であるべきではなく、効果のある社会的清涼剤であり、興奮剤であり、促進剤であるべきだと思う。しかしそれは現在のジャーナリズムに依存する限り殆ど望みがたい事であろう。
我々はそこで他に違った発表手段、活動部門を開拓すべきである。展覧会の開催、自主的な出版など、可能な方法は二三には止まらない。我々は今や、職人的漫画家以上のものを目指して努力すべきであろう。・・・
戦後、岸丈夫は折から雨後の筍のように輩出したカストリ雑誌の編集者から、漫画の寄稿を頼まれたが、拒絶して孤高を守った。当然生活も困窮し、妻の泰子は育ち盛りの子供二人を抱えて、生活のために漫画を描くように夫に懇願した。思い余って二人の子供を連れて家を出たことがある。
非常手段に出たわけだが、夫の反省を求めての二、三日の家出のつもりだった。二、三日後に家に戻ったら、家の中はきれいに整理されていて「お前はついに俺の気持ちがわからなかったのだな」という一枚の手紙が残っているだけだった。
岸丈夫は高い理想と精神を求めて、漂泊の旅に出てしまった。その後の足跡は東北各地にいくつか残っているが、ある日を境にして杳として知れない。青函連絡船に乗って北海道に渡った姿をみらたのが最後となった。
最近になって岸丈夫の油絵が数点、発見されている。「沢内の四季漫景(六曲一隻屏風画・玉泉寺所蔵)」「風景(油絵・八並誠一氏所蔵)」「娘のいない村(漫画・雑誌「かぶとむし」)」「輝ける都会(同)」「満州里の街角(玉泉寺所蔵)」「阿片吸引の図(同)」。
漂泊の旅に出てから北海道に住み、油絵を描いて、その地で没したといわれているが、その作品はまだ発見されていない。一人の漫画家の生きざまである。
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3106 岸丈夫と松本竣介 古澤襄
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