「リンゴと柿、どっちが良い?」との台所からの声に「柿でいい」と答えると「重い思いをして買ってきたのにがっかりだ」と言う。「柿で我慢する」と言う意味に受け取ったらしい。
当方は選択に迷い即座に「柿が欲しい」「柿を貰う」といいかね「柿の方にでもするか」と言う趣旨で返事したのだが、「柿にする」と言えば誤解無かっただろう。文法書には「で」は含意豊富だが正確さに欠けるとあった。
実は、一般成人向けの便利で詳しい文法書は無いと言ってよい。あっても著者により言うことが違う。日本の文法学界が諸説対立していて、「ザ」日本語文法と言えるものが確立していないからである。
学校で習う所謂「学校文法」も、1つの文法学説に基づくものに過ぎない。
現代日本語の文法研究は、日本語に印欧語(特に英語)の文法をあてはめて考える所から始まった。単語を品詞に分類し、主語―述語を文の基本骨格とする文法である。
しかし肉包丁で魚を捌いたようなもので、捌ききれない問題を沢山残した。
日本語は切れ目なく書くので単語の認定が厄介で、例えば「ている」を1つの助動詞とするか助詞「て」と動詞「いる」の2単語とするかで意見が分れ、そもそも助詞・助動詞を単語と認めない説もある。
品詞分類でも見解が一致せず、「そんな」を連体詞とするか(広辞苑)形容動詞「そんなだ」の連体形とするか(角川国語辞典)で違い、そもそも形容動詞や代名詞を品詞と認めない説も有力である(「静かだ」は、体言「静か」と助動詞「だ」とする)。
学校文法は、文は「主語―述語」で成り立つと教える。しかし、日本文に主語があるか要らないかの学術論争はまだ決着していない。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」のサイデンステッカー訳はThe train came out of the long tunnel into the snowcountryであるが、原文は作者も主人公も汽車と一緒にトンネルを抜けて行ったように読み取れ、主語は汽車だとは言い切れない。
昔、イエズス会の神父が日本語の解明に手こずり「悪魔が考えた言葉だ」と言ったというのは作り話だが、ロドリゲスは「日本語大文典」(1604年)で「日本語は・・・不完全な言語」などと言っている。
文法学者の大野晋は、日本語文法は学問としてまだ整っていない。「日本語で育った人間が・・・自分の言語を深く反省し」自分で自分の「文法を・・・組織立てていく以外に方法がない」と書いている。
言語は文化の基である。日本人は大事な事を遣り遺している。(おんだ たかし 元タイ大使。外務省「霞関会会報 4月号より転載=筆者の許諾済み 頂門の一針より)
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3150 未整備な日本語文法 恩田宗

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