<秋田県知事に自民系の佐竹氏 千葉に続き民主連敗
任期満了に伴う秋田県知事選は12日投票、即日開票の結果、自民党県連と社民党が支持する無所属新人で前秋田市長の佐竹敬久氏(61)が、民主党県連と国民新党県支部が支持する無所属で前小坂町長の川口博氏(61)ら新人3人を破り、初当選を果たした。
野党陣営の分裂選挙となったが、3月の千葉県知事選に続く民主党系候補の敗北により、西松建設の巨額献金事件で公設第1秘書が起訴された小沢一郎民主党代表の進退問題に影響を与える可能性もある。自民党サイドは、次期衆院選に向け党勢回復への弾みにしたい考えだ。
佐竹氏は「県政運営の責任を重く受け止め、うれしさというより頑張らなければとの思いだ」と勝利宣言。川口氏は、献金事件の選挙戦への影響について「全然関係なかったと思う。私の力のなさがすべてだ」と記者団に述べた。
投票率は67・39%で、過去最低だった前回を4・39ポイント上回った。
佐竹氏は県庁所在地の秋田市長を務めるなど高い知名度を生かして序盤から先行した。自民党の厚い組織力に加え、民主党県連の支持母体でもある連合秋田の推薦も取り付けて「県民党」を掲げ、逃げ切った。(共同)>
千葉県知事選に続く民主党系候補の敗北だった秋田県知事選だが、あえて小沢民主党の敗因を書かぬ。敗者に鞭打つ趣味は持ち合わせていないからである。それは小沢氏と民主党員が考えることだと、冷たい様だが、突き放して見ている。
それよりも勝者となった佐竹敬久氏の”佐竹姓”に興味を惹かれる。佐竹の殿様の末裔ならメデイアは恰好の話題と飛びついたであろう。その様な記事は見当たらないから、佐竹は佐竹でも違う佐竹なのかもしれない。
佐竹姓のルーツは関東の常陸国久慈郡佐竹郷から興った清和源氏義光流、新羅三郎義光の分流なのだが、子の義業が佐竹進士を名乗っっている。この末裔が常陸国の太守となったが、関ヶ原の戦いで敗者となった石田三成に加担したのを家康に咎められ、常陸六〇万石から秋田二〇万石に国替となった。
この秋田の佐竹氏は有名だが、全国に佐竹姓が広がっている。三河佐竹、美濃佐竹、和泉佐竹、甲斐佐竹、阿波佐竹、土佐佐竹、九州佐竹などである。
一時は頼朝にも匹敵する勢威を振るった佐竹氏だったから、当主の佐竹義宣の屈辱感は想像に絶する。秋田の土崎に向かう山越えをして、湯沢、大曲を経て横手盆地に来た時に、左手前の黄金の稲の実りを見て、思わず機嫌を直して手を叩いた。
地元では横手の地名は、それに由来すると言われている。降り立った坂はご機嫌坂と伝えられている。秋田入りした義宣が旅装を解いたところは、現在の秋田市だが、当時は茫々たる湿地帯だった。
義宣は湿地帯の窪地・久保田に岡を築き、久保田城を造った。常陸国も湿地帯が多い。湿地の泥を浚渫して濠とし、その泥で岡を築く工法はお手のものだったろう。城下町を造り、荒れ地の開墾、鉱山開発など秋田入りした佐竹氏の治世は、その後の秋田の産業発展に寄与している。
古沢一族も義宣の実弟・多賀谷宣隆に従って北の能代城に入った。宣隆に従った多賀谷家臣は僅か四〇人。その能代城も幕命によって間もなく破却され、家臣の多くは土着して農民となっている。
今の能代市には古沢姓はない。能代から南部領雫石に流れ、延享年間に沢内邑に移住している。移住農民らしからぬ古沢屋の屋号や農民に少ない蔦家紋が菩提寺の玉泉寺に残っている。
その歴史を知らずに茨城県守谷に終の棲家を定めたのは何かの導きなのかもしれない。時折、常陸古沢氏の発祥の地である下妻市古沢や八千代町をぶらり訪れているのだが・・・。
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3173 秋田県知事になった佐竹さん 古沢襄

コメント
いつも拝読させていただいております。
ウイキペデイアには以下のような記載が見られます。
「佐竹敬久の生家は、秋田藩主の一門・佐竹北家である。家系は代々、秋田藩角館一帯に一万石の封を得て、明治時代は男爵に叙せられた旧華族の出身であった。父 敬二郎は昭和21年(1946年)5月に爵位を返上し、その翌年、太平洋戦争終戦の翌年11月3日に日本国憲法が制定されて間もない時期に敬久が生まれている。」
以上、ご参考まで。