東大の脇が遊郭だったため、移転させられた、それが「洲崎」だと言ってもあまり信じてもらえない。なんたって洲崎という地名が地図上に存在しないから話が先に進まない。
有体にいえば東京・江東区役所のある「東陽町」が姿を変えた洲崎なのである。
洲崎(すさき)は、東京都江東区東陽付近の旧町名で、古くは「深川洲崎十万坪」と呼ばれた海を望む景勝地だった。明治期~1958年(昭和33年)の売春防止法成立まで吉原 (東京都)と並ぶ都内の代表的な遊郭街が設置され、特に戦後は「洲崎パラダイス」の名で遊客に親しまれた歓楽街であった。
1887年(明治20年)、富坂(現・文京区)に帝国大学校舎が新築されるため、風紀上の観点から直近に存在した根津(ねず)遊郭の移転計画が持ち上がった。
しかし最大の歓楽街だった吉原(よしわら、現台東区千束3,4丁目)に受け入れの余裕がなく、洲崎付近の湿地を整備して移転することとなり、現在の東陽1丁目付近の街区が誕生。大正末期には300軒前後の遊郭がひしめき、吉原と双璧をなす規模の大歓楽街に発展した。
大東亜戦争で深川地区は米軍爆撃機による空襲に晒されるようになり、1943年(昭和18年)には洲崎遊郭の閉鎖令が下された。跡地は軍需工場等となったが、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲で洲崎地区はほぼ完全に灰燼に帰し壊滅した。
ところが、「深川」は復活しなかったが、終戦後からわずか半年で洲崎遊郭は復興した。「洲崎パラダイス」の愛称で下町の男たちを引き寄せた。その規模と海の直近という風情から、吉原以上の人気を誇る歓楽街として隆盛を誇った。
1956年(昭和31年)製作の映画「洲崎パラダイス赤信号」には、ロケにより往事の華やかな洲崎の様子が記録されている。その後、1958年(昭和33年)4月1日に施行された売春防止法により、洲崎パラダイスは70余年の歴史に幕を引き、静かな住宅街へと変遷していった。
1967年(昭和43年)、町名の変更に伴い洲崎は江東区「東陽」と改称され、その名称が地図から姿を消した。
主な名所・遺構
洲崎大門(すさきおおもん)
現在の永代通り「東陽3丁目」交差点から東陽1丁目方向へ入ったところにあった洲崎橋に設置されていた外門で洲崎遊郭への正面玄関。
吉原の吉原大門と同じ類のもので、戦前は鉄の門柱であったが戦後の隆盛時は「洲崎パラダイス」の名が掲げられた大きなアーチ形の門が設置された。昭和33年の洲崎パラダイス廃止に伴い門は撤去された。
旧「大賀楼」建物
洲崎遊郭の中でも一等クラスの店だった「大賀」の本館。売春防止法施行後も建物が現存し(「大賀」の屋号も建物に掲示されたまま)、華やかなりし洲崎全盛期と変わらない外観を今に残す。現在は日本共産党の江東区議会議員の個人事務所として使用されている。
洲崎警察署跡
洲崎遊郭を管轄した警視庁の旧警察署。現在でも戦前の洲崎を舞台にしたドラマや舞台などで時折登場する。
昭和20年3月10日の東京大空襲時には全職員が参集し住民避難誘導にあたり、住民を可能な限り避難させたが、職員は自身の避難のすべを失い、庁舎に戻って署長以下全員が殉職という最期を遂げた。
同様に東京大空襲で壊滅した平野警察署、扇橋警察署と共に、その所管を深川警察署に吸収統合された。
大門(おおもん)通り
洲崎遊郭の正面玄関だった洲崎大門から、吉原遊郭の吉原大門がある土手通りを繋ぐ一本道。遊郭の大門と大門を繋ぐ街道として発展し、現在もバス通りとしてその名が残る。
華やかなりし時代には、遊郭へ遊びにやってくる男たちで賑わった。この通りの脇、約200mのところに主宰者のアパート(21階建)がある。
洲崎球場
戦前、洲崎地区に設置されていた野球場。後楽園球場が出来るまではプロ野球公式戦のメイン球場の一つとして利用されたが、もともと湿地帯に作られた球場のため水はけが悪く、冠水によるコールドゲームも発生した。
永井荷風
小説家の永井荷風は「断腸亭日乗」などの著書で吉原と共に戦前の洲崎遊郭の風情を幾つかの小説に書きとどめており、往事の姿を伺うことができる。
小説「洲崎パラダイス」
終戦後から隆盛を極めていった洲崎遊郭に生きる遊女たちの素顔を追った芝木好子の短編。昭和31年に「洲崎パラダイス赤信号」の名で映画化された。 (ウィキペディア)
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3175 東京大学と遊郭「洲崎」 渡部亮次郎

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