3S政策(さんえすせいさく)とは、大衆の関心を政治に向けさせないように取る愚民政策のひとつ。1945年の大東亜戦争敗戦後、日本を占領に来たアメリカのマッカーサー元帥は戦勝国たる連合軍の最高司令官として君臨。
占領軍の際たる目的は日本の魂を抜き、2度と再び世界に覇を唱えさせない国とすることだった。その真髄が3S政策といわれた。文書として残っては居ない。
3S政策の3Sとは、以下の言葉の頭文字を取ったとされる。
Screen(スクリーン)
Sport(スポーツ)
Sex(セックス)
玉音放送(敗戦の詔書)の起草者でもある安岡正篤は、大東亜戦争終結後、連合国総司令官GHQが日本の占領政策を実行するにあたり、基本原則としての「3R」(Revenge―復讐、Reform―改組、Revive―復活)、重点的施策としての「5D」(Disarmament―武装解除、Demilitalization―軍国主義排除、Disindustrialization―工業生産力破壊、Decentralization―中心勢力解体、Democratization―民主化)、そして補助政策としての「3S」を策定したことをガーディナー・GHQ参事官から直接話を聞いているという。
安岡が存在したと主張する、この政策により、日本では性風俗が開放され、映画やエンターテインメントが興隆し、プロ野球をはじめとするスポーツが国民行事となった。
スクリーン(映画)、スポーツ、セックス(性産業)またはスピード(クルマ)は大衆の欲望動員による娯楽であるが、それらに目を向けさせることにより、民衆が感じている社会生活上の様々な不安や、政治への関心を逸らさせて大衆を自由に思うがままに操作し得るとされる。
簡単に言えば「ガス抜き」政策である。あまりにも厳しい占領政策をすると、暴動が起こる恐れがあるので、人々の目を逸らさせるために密かに展開された政策である。
安岡は「日本を全く骨抜きにするこの3R・5D・3S政策を、日本人はむしろ喜んで、これに応じ、これに迎合した、あるいは、これに乗じて野心家が輩出してきた。
日教組というものがその代表的なものであります。そのほか悪質な労働組合、それから言論機関の頽廃、こういったものは皆、この政策から生まれたわけであります」と警告している。
これらの政策と「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」により、日本のマスコミや教育現場が当時のGHQによる検閲を経て、現在に至るまで「自己検閲」を続けることによって日本の弱体化を図ったものとされている。
同様の主張をしているのが自民党で、『党の使命』で“占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が誤っており、主としてわが国の弱体化に置かれていたため”愛国心と国家観念が不当に抑圧された、と断じている。
マッカーサーによる日本歴史、地理、修身の教科禁止は当に大和(やまと)民族の滅亡を図る真髄だった。それなのに、日教組はマッカーサーの狙いの真実を探ろうともせず、さながらそのお先棒を担ぐようにして教育の衰退を招いた。
その担ぎ手を代表して参議院を牛耳っているのが参議院民主党議員会長である。参議院ならぬ衆議院議員選挙で、間違って民主党に政権が渡ったら文教行政は連合軍占領時代に逆戻りし、暗黒時代が再現する。
日教組は占領軍に協力する代償として教員の労働組合結成を許されたものである。それまでの「聖職」との尊敬を投げ捨て賃上げと労働条件改善を叫ぶ一介の労働者にみずからなり下がった珍しい存在である。
私は長じて社団法人日米文化振興会理事長を引き受けある年、アメリカの教育事情を調査する機会を得て渡米したが、なるほどアメリカの公教育は「労働者」によって背負われているし、賃金も年収300万円ぐらい、社会的尊敬は全く払われていない。あれじゃストを決行するしかないと納得した。
しかし、日教組は後になってそれらに気付いたが、組織の体質は既に硬直化し、後戻りは不可能だった。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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3207 3S政策で芯を抜かれた 渡部亮次郎

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