「学テ」と聞くと昔を思い出して緊張するが、今は間抜けな学テも出現したようだ。
<学力テスト、実施日間違え行わず…鹿児島の小学校
鹿児島県南九州市の市立小学校1校が、全国学力テストの実施日を間違え、テストを行っていなかったことが分かった。学校側は21日、保護者に謝罪し、22日にテストを行う。
市教委によると、この小学校の担当者が、22日が実施日だった昨年度のマニュアルを今年度分と思い込んだのが原因。この小学校からテスト終了の報告がないため、市教委が問い合わせてミスが判明した。
市学校教育課は「17日に開いた会議でも実施日について説明していた。本当にあり得ないミス」と話している。学校側は児童の保護者に対して、問題を掲載した新聞などを児童に見せないよう求めた。
県教委によると、県内では、インフルエンザなどのため児童全員が欠席するなどした小規模公立校2校もテストを行わなかった。これらの児童は5月8日までにテストを受けることができるが、成績は文部科学省が公表する結果に反映されない。> (4月21日23時49分配信 読売新聞)
第1回の全国学力調査が行なわれたのは1961(昭和36)年10月26日。私がNHK記者として駐在していた岩手県では日教組の反対指令に忠実に従って81%の小中学校でテストは行なわれなかった。直後闘争を展開した岩手県教職員組合の幹部9人が県警に逮捕された。
当時朝日新聞記者だった岩垂 弘(いわたれ ひろし)氏がブログで回想記を公開している。
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岩垂 弘(ジャーナリスト)
<第31回 岩手・忘れ得ぬ人びと④ 教員組合幹部
1961年(昭和36年)10月26日、文部省による全国一斉学力テストが行われた。中学2、3年を対象にしたもので、学習指導の改善や教育的諸条件の整備のため、とされた。
これに対し、日教組は「教育の国家統制の強化を企図するもの」として阻止行動を指示。結局、大半 は混乱なく学力テストが行われ、実施率は全国平均で91%だった。しかし、岩手県は81%の学校で学力テストが実施されず、平常授業が行われた。
その直後、小川、千葉樹壽、佐藤、千葉直、柏氏ら岩教組執行部9人が地方公務員法違反容疑(禁止されている争議行為をそそのかし、あおったという容疑)で逮捕される。
裁判は最高裁まで持ち越され、1976年、そこで有罪の判決(執行猶予付き懲役刑)がくだされる。「学テ闘争をやったことを今も誇りに思っている。学テは世論に押されて5年で終わり、国民の判定はとうに出ている」。判決を聞いた小川の談話である。
私が朝日新聞盛岡支局に勤めていた1958年(昭和33年)から60年にかけてのころ、 報道関係者の間ではやっていた言い方の一つにこんなのがあった。
「泣く子も黙るがんきょうそ」 「がんきょうそ」とは「岩教組」のことであり、岩手県教員組合の略称である。
小、中学校の教員を主体とする労働組合だが、その組織力、闘争力が極めて強力だったことから、こういう呼び方が生まれたものと思われる。
当時、岩教組を率いていた委員長は小川仁一。 東和町の出身で、小学校教諭を務めたあと、 組合活動に転じた。粘りっこい岩手弁で、言いにくいことも歯に衣着せずずけずけ言う。
押しも強く、ときにはそれがふてぶてしい印象を与えた。このため、敬遠される向きもあったが、率直で、温かみのある人柄が愛され、人気があった。彼我の力を慎重に見極めて入念に戦術を練る戦略家といった感じのリーダーだった。
これに対し、書記長の千葉樹壽(たつし)氏は、堂々たる体躯の、見るからに闘士といった感じで、いうなれば猪突猛進型活動家のイメージ。音楽の先生、と聞いたことがある。
他に、教文部長の佐藤啓二氏、情宣部長の千葉直氏、執行委員の柏朔司氏らが印象に残る。また、岩教組は 当時、日教組に役員(中央執行委員)を出しており、当時は小田一夫氏だった。
ところで、私が盛岡を去った後、小川は2度にわたって全国的な出来事の主役となり、脚光を浴びる。
「がんきょう」という言い方に岩教組の「岩教」と「頑強」という文字がだぶって思い起こされ、なかなか面白い言い方ではないか、と思ったものだ。
当時、組合員は約1万人。もちろん、岩手県最大の労組だった。専従者が36人もいた。日教組(日本教職員組合)内では高知県教組の強力な組織力と並び称され、「南の高知、北の岩手」といわれた。「日教組ご三家の一つ」ともいわれた。
なにしろ、そのころは「岩手には2つの教育行政機関がある」とまでいわれたものだ。1つはもちろん県教育庁だが、もう1つが岩教組。
とくに教員の人事異動に強い発言力をもち、「岩教組が反対すると、人事異動を発令できない」とまでいわれていた。
私も取材を通じて、その闘争力に接することがあった。支局に赴任した直後、岩教組が勤務評定問題での交渉を求め組合員が徹夜で県教育庁庁舎に座り込んだことがあった。
排除のために警官隊が出動し、激しいもみ合いとなり、けが人が出た。サツまわり(警察まわり)だった私も動員されたが、岩教組の動員力、統率力に目を見張ったものだ。 (中略)
岩教組の強さを支えていたものの1つは、その経済力だった。当時、県内各地に15の教育会館をもっていた。また、互助部には当時の金で1億円を蓄えていた。山林12ヘクタールをもつ 山林地主でもあった。こうした財政力があったから、各種闘争に資金を投入することができたのだ。
それに、岩手の僻地性も作用していたろう。僻地校が多く、教育環境も教員の労働条件も極めて劣悪だった。だから、教員たちは、それらを解決するためには、自分たちの組織に結集して団結力を示す以外に道はなかった。
2回目の脚光を浴びた舞台は、1987年3月に行われた、売上税が争点となった参議院岩手選挙区補欠選挙だ。小川は社会党公認で出馬し、自民党公認候補と一騎打ちとなったが、「売上税反対」一本にしぼった小川が42万票対19万票で圧勝。小川が語った「中曽根さんのおかげです」は流行語になった。中曽根内閣は売上税法案を廃案にせざるを得なかった。
当選直後、参院議員会館の小川の部屋を訪ねた。「おお、岩垂君、元気かね」と笑顔で迎えてくれた。やはり岩手弁であった。89年の参院選で再選される。2002年に没。84歳だった。
岩教組本部の事務所は盛岡市街の中心、盛岡城址きわに建つ教育会館内にあったが、同市内には高校の教員でつくる岩手県高等学校教職員組合(県高教組)の事務所もあった。
そこでは、よく情宣部長の澤藤禮次郎に会って話を聞いた。長身で端正な感じの論客だった。彼はやがて委員長になり、その後、出身地の北上市を地盤に旧岩手2区から社会党公認で衆議院選に打って出て、当選した。その彼もすでに故人だ。>
岩垂氏は東京本社社会部記者となり、北朝鮮ルポを掲載、北朝鮮礼賛記事としてよくも悪くも注目された。私は岩手県庁記者クラブで顔見知りではあったが話をした事は無かった。その理由は別の機会に譲る。
なお「全国学テ、来年から中止」は私の短い文部省担当記者時代の特ダネだった。それが文部事務次官の逆鱗に触れ翌日から会見拒否されたが、特ダネは嘘ではなかった。ネタ元は文部省ではなく自民党だった。
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