用事を思いついて、居間から書斎に入る。しかし、入った瞬間、何の用事だったか失念している。しばし立ちすくむが、思い出せない。
春だから、ではない。最近は割合しょっちゅう、そんなことがある。老人性ナントカ症なのだろうが、病名はわからない。その話、ひと世代若い友人にすると、
「ぼくだって同じですよ」と言うのだが、どうもうそ臭い。当方、十年前はなかった。
愚痴をこぼしているのではない。初めて体験する老いの生々しさでもある。対策を考えればいいのだ。家のあちこちにメモ用紙とペンを置いて、立ち上がる時、用件をさっと書いたメモを手に書斎に入るとか。
ところで、先日、東京駅の丸の内口からタクシーに乗った。
「市ケ谷の防衛省前まで」と私の事務所の場所を言うと、
「どんなコースで……」
「靖国通りを行って」
「じゃあ、神保町にでて」
「いや、そこまで行かなくても、九段経由」
話がどうも噛み合わない。見ると、運転手は相当のお年寄りである。最近は東京の地理にうとい若いにわか運転手が増えているのは確かで、
「東京駅に」と頼むと、
「道順は」と問い返すのまでいる。
「えっ、わからないの」
「すんません、このあたり走りませんので」
と信じがたいことを言われ、結局、右に左に、と私の道案内で駅にたどりついたことがあった。
しかし、年かっこうから見て、そのケースとは思えない。なんとか防衛省前に着いた。メーターは千六百十円と出ている。千円札二枚渡すと、
「十円ありますか」
「ああ」
ところが、十円硬貨を受け取ったまま、運転手はモタモタと動きが止まっている。私と同じ瞬間忘却症(勝手に名づけたのだが)か、
「ツリは四百円だよ」と言ったものの、さすがに心配になった。
「運転手さん、おいくつかね」
「この夏で八十ですわ」
「頑張るなあ、あまり無理せんで、ぼちぼちやったほうがいいよ」
「わしはまだ大丈夫ですよ、ヘヘヘ」事故を起こさなければいいが、と思わずにはいられなかった。
話は変わるが、先々週だったか、民放テレビの朝番組で、長崎県佐世保市の沖合に浮かぶ〈赤島〉という名の小島をルポしていた。ここには六十五歳以上の男ばかり八人(七十代が二人)が住み、漁業で生計を立てている。女性はいない。
島と言えば、日本周辺の領海には無人島まで含めると約七千あるそうだが、人が住んでいるのは四百あまりにすぎない。赤島はそのなかでも住民数が最少の部類だろう。
◇高齢者は自衛策を、社会は思いやりと敬老精神を
それにしても、なぜ高齢の男性だけなのか。敗戦後は海外からの引き揚げ者約四百六十人が定住していたが、ほとんどが十五歳で島を出て働き、長崎県内などに住んだ。
だが、この八人は定年を過ぎると、少年時代を送った故郷の島が無性になつかしくなり、家族を残して単身帰島したのだという。
「島が好きなんです。島は母親と同じだ。欲得じゃなく、無人島にしたくないもんだから」
と日焼けした男の一人が語っていた。八人そろって消防服を着込み、消火訓練する姿なども映され、みなさん面相がとても柔和でのどかだった。
「なぜ、奥さんと別居してまで?」
「女房も理解してくれてる。時々電話してるから」ということである。
こんな老後も悪くない。たまたまめぐりあった、都心を走る後期高齢者の老タクシー運転手は少々気の毒に思ったが、島の男たちの気楽な余生はうらやましくもある。時折、瞬間忘却症に見舞われたとしても、島暮らしなら、まず安心だろう。
だが、赤島は例外である。このほど政府に〈安心社会実現会議〉ができたのを見てもわかる通り、日本の現状は安心社会からほど遠いからこそ、会議が必要なのだ。しかも、不安は高齢者にいちばん過酷にのしかかる。
ひと口に高齢化社会というが、内情は千差万別、どんな不安が潜在しているかも高齢者になってみなければわからないことがほとんどだ。自称、瞬間忘却症なんかもその一つにすぎない。訴えてどうなるものではなく、自衛策を講じなければならない。
だが、訴えて政治や社会の力でなんとかしてもらいたいこともたくさんある。高齢者対策は日常的に言われているが、対策を立案する政治家、高級官僚が非高齢者ばかりだから、血が通いにくい。高齢政治家でも坊ちゃん育ちの世襲組にはピンとこないのだ。
その典型が昨春スタートした後期高齢者医療制度だった。七十五歳以上の後期だけ切り離すこの新制度に、世間と野党が猛反対したため、選挙に不利と思ったのだろう、自民党は制度の見直しを検討するプロジェクトチームを作った。しかし、いまのところ、悪評高い名称を見直すとしか言っていない。
いまさら、名称なんか見直さなくてもいい。名称を変えたところで制度がそのまま残るのでは、意味がないからだ。とにかく、高齢者の声が届きにくくなっている。
〈老人力〉などと言って意気がっている向きもあるが、老いてなおパワーを失わない一部の高齢者の話で、とりわけ後期高齢者ともなれば、発言力は確実に細くなる。それをすくい取ることができるかどうかは、社会の思いやりと敬老精神の有無に尽きる。
とりあえず、瞬間忘却症だけでも知ってもらいたい。自衛はするが、横断歩道でもたついているのを見て、
「じじい(あるいは、ばばあ)、ぐずぐずするなっ!」とドライバーは怒鳴らないでほしい。
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3222 「瞬間忘却症?」があるんです 岩見隆夫

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