3223 戦前の人の礼儀正しさ 加瀬英明

大磯の吉田茂邸が全焼した。幼いころから父に連れられて知っていたので、なつかしい記憶がこもっている。
改築を重ねた旅館のように、大きな家だった。私は20代から30代だったが、雑誌社から頼まれたり、戦時中や、占領下についてノンフィクションを書くために、晩年のワンマンをたずねた。側に仕えていた林さんに電話をすると、いつも時間を割いてくれた。
ある日、私は午後2時に着いた。その日は昼寝をとっていないということで、林さんから短めに切り上げてくれといわれた。
書斎に通されると、昼寝をしなかったというのに機嫌がよかった。インタビューが終わると、「君は外務省だったな」と尋ねられた。
もちろん、違うことを知っていた。「違います」と答えると、「そうだったな。君が外務省にいたら、君のおやじがこれまで外務省で最もできた者にならなかったな」といって、気持ちよさそうに笑った。老いても、茶目っ気に溢れていた。
私が帰ろうとすると、「いや、今日はお酒をご馳走しましよう」といって、補聴器のわきに置かれたベルを押した。黒服を着たボーイが入ってくると、ブランデーを持ってくるように命じた。ボーイが戻ってくると、鼻眼鏡を通して瓶をゆっくりと眺めた。そして、「今日は特別なお客さんだから、いつものではなく、とっておきのヤツを持っていらっしゃい」といった。
ボーイが新しい瓶を銀の盆に載せて持ってくると、「いいでしよう」といった。私は感動しながら、2杯もご馳走になった。
後日、ある自民党の議員に会って、吉田邸のブランデーの話をしたら、「おっ、じゃあ俺もひっかかったんだ。じいさん、いつもその手だったんだな」といった。
礼儀正しい人だった。私がたずねていっても、帰る時には途中に何段もの階段がある長い廊下を歩いて、玄関まで見送ってくれた。
吉田翁は首相として在任中に、現在の自衛隊の士官学校に当たる防衛大学校を創立した。防衛大学校の生徒がしばしばグループをつくって、吉田翁をたずねたが、学生たちが帰る時には、かならず玄関まで見送った。
戦前の人は礼儀が正しかった。高橋是清、渋沢栄一、北一輝にしろ、大学生がたずねてきても、傲らずに座敷にあげて話をきいた。幕末の志士が若者だったからかもしれない。
私が大学生のころ、鎌倉から横須賀線で通学した。ある時、正力松太郎氏が3つほど先きの座席にいたので、黙礼をして座った。私の父と親しかった。連れられて、逗子の正力邸をたずねたことがあった。
しばらくして、正力翁が私の隣にやってきて座った。そして若い者がどんな本を読んでいるのか、たずねられた。私が「手招きをして下されば、参りましたのに」というと、「いや、わたしが教えて貰うのだから」とたしなめられた。
三井不動産の江戸英雄会長と親しくさせてもらった。ある時、百合丘に分譲住宅を建てているが、「ぜひ一度、見て下さいな」といわれた。現場をたずねると、江戸会長が待っていて、親しく案内してくれた。私が恐縮すると、「私がお誘いしたのだから、当然です」といわれた。
かつて日本人は礼節を重んじた。今、日本人らしい日本人が少なくなっていることが、国の行く末に不安を覚える。
杜父魚ブログの全記事・索引リスト

コメント

タイトルとURLをコピーしました