3225 大黒鉱山をめぐる人々① 菊池今朝和

◎北アルプス大黒鉱山開発の端緒 
大黒鉱山は八方尾根を登り、唐松小屋から祖母谷温泉に二時間ほど下った所にあり、餓鬼谷の左岸には坑口が穿たれ、登山道沿いの台地には事務所や精錬所などがあった。今でも坑口は三地点で十数ケ所余り確認できる。
また、主要設備のあった台地には朽ちた柱や製錬した後の不純物、鍰(からみと読みスラグとも)が小山と積まれおり、餓鬼谷沿いには石垣や索道の部品なども流れの中に晒されている。
大黒鉱山という名は、信州側からみて大黒岳の裏手の鉱山ということで名付けられたが、実質の位置関係は、餓鬼谷左岸から五竜岳に向って掘られている。
鉱山は地元の猟師によって明治39年に発見された。日本山岳会の機関紙『山岳』の明治42年発行版に「案内人の松沢菊一郎が大黒鉱山を発見した」とあるが、鉱業法によるところの、試掘願いには中村兼松他二名とある。
その後、中村等は鉱業権を日本でも有数の金鉱山「鷲ノ巣鉱山」を経営する為田文太郎に売却する。
白馬村史によれば人夫一日三十銭という当時、売却額は一万余円だったという。売却の経緯は不明だが、当時創業していた白馬銅山の経営者とは為田は旧知で、そのつてだったかも知れない。
大黒鉱山は為田文太郎を手始めに五人の経営者に受け継がれ、大正13年まで中断を含みながらも採鉱され、翌年には鉱業権は抹消されるが、紙数の関係でこの稿は大正のはじめ迄で筆を措く。
◎為田文太郎時代の幕開け
為田文太郎は万延元年、岩手県和賀郡沢内村の富農に生まれ、明治22年初代沢内村長に選ばれる。その後県議に転進するが、政治に見切りをつけ、父親の安太の手がけていた鷲ノ巣金山の経営に手腕を発揮する。
「売り上額、月々四~五〇〇円の小山を三年余りで、日本有数の金山、月産三貫目以上の鉱山に育てしまった」(和賀新聞)。明治39年には、為田は父安太から鷲ノ巣金山の経営権を継承する。いわば羽振りのよい時に、大黒鉱山の話が持ち込まれたのであった(和賀郡史)。
明治39年北城村(昭和31年神城村と合併白馬村となる)森上の「かぎ丁」旅館と黒部川下流の交通の要衝、舟見町(現入善町、当時宿場町)の旅籠に、「鷲ノ巣金山為田礦業所」と染め抜かれた印半纏を羽織った人達が現れた。
翌年の開坑にそなえての下見であった。折り良く黒部側沿いの道は、明治34年から林業促進のため、内山村から祖母谷まで開鑿され明治37年完成していた。
鐘釣までは六尺幅(約一八〇㎝)、そこから祖母谷迄は三尺幅(約九〇㎝)の小径であった。この難路は四年かけ、総工費四五、二五八円で開通した。さらに鉱山開発にとって幸いしたのは、明治38年に魚津町の豪商、廻船問屋の朝田新兵衛によって祖母谷温泉が開湯されたことであった。
客室棟や浴室棟、さらに露天風呂があり、運動場にはブランコ、鉄棒などが備わり、食品など日常品は毎日荷揚げされ現代の健康ランドのような施設だった(下新川郡史)。さらに記録はないが、官林見回り路として南越までは道ができ、稜線までは踏査されていたと確実視される。
白馬村側からはまず大黒岳を乗り越し、事務所、精錬所予定地までの道作りが始まった。道は平川の左岸伝いにつけられ、途中で橋を渡りやや登った平地に、物資の仮置き場と休憩所を兼ね平川倉庫が建てられた。萱で囲った簡単なものだったが、充分雨風を凌いだ。
道は整備されここまでは馬が通った。明治25生れの倉科きしは「子供のころお転婆でね、馬を扱えるので、毎日下の事務所と平川倉庫の間を馬に荷を付けて行ったり来たりしていた。あるとき為田文太郎さんが山から降りてきた時、どこか細野に泊る所ないかと聞かれたので、家ではどうかと云ったら、気に入って、それからは為田さんが鉱山に来ると、いつも泊った」と語った。
また為田文太郎の写真を見せると「わぁー為田さんだ」と、相好を崩し、「そういえば為田さんから頂いた小物入れがあるはずだ」、さらに「為田さんのお妾さん、おキミさんと云ってね、大黒岳の急な雪渓で滑り落ち、それからはあの雪渓のことをおキミ落としていうだ」と、九〇歳の倉科さんは、つい昨日のように話した。
さて、話は戻り、平川倉庫から沢を越え、二本松尾根を登り途中から雪渓に移り最後にガラ場を詰めると大黒岳の肩に出た。そこから尾根に入り、途中から沢伝いに下ると、事務所にでた。おおよそ一〇時間強の行程であった(『山岳』明治43年版)。
道造りに並行し建物の建設がはじまった。明治42年発行の下新川郡史に「現今、幅四間、長さ二十間、高さ三間の製錬所あり、その他幅三間長さ一〇間、二階建てなる宿舎、及び幅三間長さ八間の倉庫あり、五十人の坑夫は常に作業に従事せり、明治41年に於いて八百貫の銅を製錬せりと云う」と記述している。
人の背で物資、資材を運搬するこの時代、最大の困難は製錬炉の運搬であった。平川の辺まで馬車で運ばれ、その先は人力であった。当初、私は現地で耐火物を組み立ていたと推定していたが、故老から「炉の下に丸太をコロがわり入れ、人力で引き上げた」(丸山五郎ェ門、大3生)と聞いた。
丸山さんの見たのは大正7、8年頃かも知れない。坑口を調査中、銅が付着した鋳型と、半分に割れ大黒の点の部分が残った鋳型を製錬所近くの藪のなかから発見したが、完品の鋳型は三〇Kgあった。鋳型で台形状に鋳込まれた粗銅は(当時の製錬技術では純度の高い銅を作るには限界があった)金色に輝き、八貫目(約三〇Kg)の重さで、大黒と印刻されていた。
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