3226 大黒鉱山をめぐる人々② 菊池今朝和

◎越冬中の大惨事
このように順調に鉱山開発が進むが、三年目の明治42年、大黒鉱山は危機に見舞われる。三月三日、餓鬼谷の鉱山小屋に越冬中の一人の坑夫が、決死の覚悟で雪と氷の唐松岳を越え、八方尾根伝いに村里へ駆け下り救助を求めてきた。
秋田出身の熊谷要助(35歳)だった。前年の17名に続き、建物の保守等で、40名余りの人夫が下山した後、15名が越冬していた。前年の越冬は順調だったが、この年は、正月を過ぎた10日頃より体調を崩す人が続出し、二月も末になると殆どの越冬者が寝込んだ。
2月24日、富山出身の秋田林蔵(22歳)が奥さんを残し逝った。四日後の28日には、15歳の林蔵の義弟の林平も後を追った。足はむくみ、次第にその症状は上に上がり、腹部が膨れ、苦しんで亡くなるという病だった。
体調の良かった熊谷要助は、支配人で岩手出身の高橋浅太郎(54歳)に相談した。高橋は妻(53歳)と娘(14歳)を伴って越冬していたが、高橋も妻もすでに発病していた。かろうじて娘だけが症状が出ていなかったが、殆どは臥せ、死を待つといった状況だった。
三月初めとはいえ、厳しい北アルプスの奥深い谷底である。熊谷要助は好天を待って、細野部落に下ることを決意する。充分な装備を持たない坑夫が、餓鬼谷から唐松岳へと尾根伝いに登り、八方尾根の取り付きの急崖を命がけで下り、あとは尾根通しをひたすら細野部落めざし駆け下りた。
早速、悲惨な状況は麓の鉱山事務所、警察(北安曇郡北城分署)など村人に知らされた。村人は大いに驚き救護隊を組織したが天候が悪く出発は6日となった。熊谷要助の説明により地元の医師は脚気病と判断し、脚気の薬と野菜類の他ミカン、牛肉、杏の缶詰を準備し、隊員6名は鉱山小屋めがけて登った。登ってみると、越冬者の病勢は悪く死の淵をさ迷っていた。
手当をなす術もなく、これでは雪解けまでは全員の命はもたないとの結論に達した。ひとまず6名の救助隊員は後ろ髪を引かれる思いで下山した。早速、巡査の金生塚蔵を責任者に救助隊が組織された。隊員は麓の鉱山事務所から3名、それに屈強な強力15名が選抜され、隊員は19名となった。
これだけの大規模な救助隊結成は、北アルプスでの遭難史上初めてではないかと思われる。翌3月12日、午前四時19名の救助隊は村を出発した。この救助登山はかなり困難を極めた。
八方尾根は名うての風の通り道、筆者も冬季八方池山荘で二シーズン働いたが、三月初めとはいえ山は厳しい。途中風雪に翻弄されながらも唐松岳を越え、12時間掛け午後4時やっと白一色の台地に着いた。
しかし、一〇mを超える積雪のため、二階建ての屋根も見えない有様だった。そこで小高いところをめがけ、二ケ所から試し掘りをはじめたら運良く、鉱山小屋の二階の窓に突き当った。
雪倉のような室内は真っ暗闇で、先頭の金生巡査は提灯を点けて内に入ると、生存者は全員原因不明の病気に罹り「気息奄々生気なく・・もの言う力もなくして提灯の明かりを見詰め感謝の意を涙に表わせる」といった惨状だった。
二階、一階と小屋内を調べると、死者は増えていた。残念なことに救助隊が入山した日に、富山出身の山本由太郎(32歳)、同妻のもと(30歳)、さらに秋田出身の佐々木梅之助(28歳)が新妻を残し亡くなっていた。
また翌朝には秋田林蔵の妻ひさ(24歳)も夫の後を追った。若い越冬者がつぎつぎに亡くなったが、ひときわ涙を誘う光景があった。金生巡査が生存者の数が合わず、高湿度と死者の臭気に堪えて二階、一階と上下して眼を凝らし、再度階下に降り仔細に観察とすると、炬燵と思っていたのは遺体であった。
救助隊の仲間を呼ぶと、驚いたことにその遺体が動き出した。隊員の驚きをよそに、その死体の腋から幼い女の児が這い出してきた。その日亡くなった、山本由太郎夫妻の娘はな5歳であった。
幼女が入り込んでいたのは、温もりが消えつつある父親の亡骸であった。6名の遺体は箱に入れ近くの雪原に埋められた。翌日は天気が悪く鉱山小屋に逗留した。翌14日未明、救助された6名と救助隊の19名は助け合いながら、半日掛け麓まで下山した。
五歳の幼女は、強力の背に負われ下山した。遺族の懇願もあり、北城警察分署は役場の力も借り遺体の発掘隊を四、五月と計画したが、残雪の影響等で延び延びとなっていたが、6月7日漸く出発となった。
羽生巡査を責任者に、地元の強力8名、それに62歳と高齢の北澤医師が死体検案のため参加した。遺体の識別は毛髪の長短で行い、携帯した箱に詰められた。翌日強力達の背で遺体は夜の八時に里に下り、9日火葬にふされ親戚等に遺骨は渡された。
病名について、北澤医師は脚気と推定したが、救助された高橋浅太郎は「今度の病気は多分野菜を喰わなかったからだと思います。昨年11月までには大方野菜を喰い尽して」と語っている。(信濃毎日新聞、富山日報、高岡新報)
さて、ここで被災者達のその後を辿ってみる。両親を一度に失った5歳の児は、一時危篤状態だったが、親切な村人の看病で元気を取り戻し、迎えの伯父と父の生家に帰った。昭和56年夏、黒部市の僧ガ岳の麓にある、5歳の児の父の生家を訪ねた。
従兄にあたる山本重太郎翁は「よく覚えている、べそ掻きながら叔父さんに連れられてきた。胸に名前を書いた札を付けていた。結婚して下の村で暮らし、一人息子がいたが、60を過ぎたころ亡くなった」と語った。
その息子さんに会うと「母は昔のこと一切話しませんでした。無口で、静かな母でした。私が弱いので気遣い亡くなりました」と写真を見せてくれた。写真には小柄で穏やかな顔のはなさんが、もんぺ姿で佇んでいた。
秋田林蔵さんの身内は入善市に住んでいた。「遺体を火葬にしたからお骨を受取りに、と連絡あったけれど、当時家は大変な貧乏で、遺骨を取りにゆく交通費もなく、現地に埋葬してくれと連絡したと親から聞いています。親も私等もズート気になっていました」。この後、秋田さんご夫妻は、白馬村の長谷寺を訪ね回向をとげ、積年の肩の荷を降ろした。
無事生還した一人の岩手湯田町出身の高橋常蔵(当時18歳)は、その後も鉱山で働き、戦後は伊豆の鉱山を渡り、西伊豆の静かな海沿いの町で家族に見守られ亡くなった。
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