3227 大黒鉱山をめぐる人々③ 菊池今朝和

◎地元の資産家横沢本衛登場
こののち、紆余曲折があるものの、事業は発展しつつあったが、為田文太郎は明治45年6月30日、同様に経営していた新潟県北蒲原郡の古小屋鉱山で、火薬を調合中に引火事故で急死してしまう。
為田は運転資金を北城村の旧家横沢本衛から融資を受けていたが、その負債額も多額だった。必然的に、鉱業権は為田文太郎から横澤本衛(もとえ)、に移った。
横澤本衛は安政元年一月、横澤本右衛門の長男として生まれた。幼くして父を亡くし、17歳で家を継いだ。家業は代々酒造業と麻問屋を営んでいた。横澤家の人達は、時代に敏感な人達であった。
江戸末期の帳簿の裏に、落書きがあつた。「官軍国中平ニシテ安穏タルコト是全天ノ命ニ有」、次に「冠や錦のはたをひるがえし目ざす処わ阿いづせん大」と書いてある。
官軍の進攻で、興が乗り書いたものだろう。最後の二字「壽朝」は、時代に対する期待が滲む。横澤本衛は郡議会議員、県議会議員さらに衆議院議員を務め、北安銀行、小谷貯蓄銀行、安曇電気(株)等々の創立に携わり、地方経済の発展に寄与した(北安曇郡史)。
「越中地籍大黒鉱山は・・・又、又、本月中旬より採掘に着手せり規模大にして目下主任として阿部工学士出張、それぞれ指揮監督の下に発展しつつあり。ために北城村は非常なる好況を呈しつつあり」(信濃毎日新聞、大正三年六月)。
横沢本衛はこの年、意を決し、3600余円投じて(当時白米10㎏、一円七八銭)、倉庫など建物の改修、橋の架け替え、道の整備など鉱山経営に本腰を入れる。しかし、横沢本衛はこの後、大正4年12月、病気で倒れる。為田、横沢と厳しい自然に挑み、地方経済を担った二人は、不遇にも事業半ばで他界したが、大黒鉱山は鉱主を変えこの後も続いた。(北アルプス開発史研究会)
この文は長野県大町市の大町山岳博物館の会報「山と博物館」用に依頼され(今年11月号発行?予定)このような原稿を書き上げました。本来は原稿用紙七〇枚~100枚ほどの内容を6000字と限定されたためかなり窮屈で分かりにくい文となりました。(文中敬称略)
    
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