民主党は良くも悪くも”鳩山家”なしには考えられない政党である。<鳩山由紀夫(はとやま ゆきお、1947年(昭和22年)2月11日 – )は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。民主党幹事長。鳩山一郎元首相は父方、ブリヂストン創業者の石橋正二郎は母方の祖父。総務大臣の鳩山邦夫は弟。(ウイキペデイア)>
政党を結成するには、カネが必要になる。戦前、戦後を通して保守政界の黒幕として名を残した辻嘉六氏は、戦前は日本に亡命してきた中国の孫文を支援し、戦後は日本自由党の結成、保守合同の”陰の立て役者”だったが、その裏面史については口を閉ざして、亡くなった時にはペルシシャ絨毯と紫檀の茶箪笥しか残さなかった。
東京・永福の築地本願寺和田堀廟所に辻嘉六氏の墓があるが、墓碑銘の表書きは鳩山一郎氏の義兄で政友会総裁だった鈴木喜三郎氏、裏書きは鳩山一郎氏が書いている。吉田茂氏の名はない。考えてみると、昭和21年4月の戦後初の総選挙で、日本自由党は鳩山総裁の下で第一党となった。その資金面で辻嘉六氏が動いている。
ところがマッカーサーのGHQは、総理大臣を目前にした鳩山一郎氏を公職から追放した。この追放劇の裏は奥が深い。まだ解明されていない部分がかなりある。政界を去らねばならぬ鳩山一郎氏は自由党総裁の後継者に古島一雄氏を引っ張り出そうとしたが断られている。
そこで登場したのが吉田茂氏だった。当時は鳩山一郎氏ともまだ親しく、交渉役には松野鶴平氏が当たっている。渋っている吉田茂氏を落としたのは松野鶴平氏の口説きと粘り腰だったという。だから吉田茂氏の自由党総裁は”雇われマダム”の様な存在だったといえる。
麻生VS小沢の次期総選挙といわれているが、別の角度でみると吉田茂氏と鳩山一郎氏の末裔のサヤ当てともいえる。もっとも麻生側には弟の鳩山邦夫氏がついているから、単純な吉田VS鳩山の図式ではない。兄の鳩山由紀夫氏が担いでいる御輿は小沢一郎氏。小沢氏は、吉田茂→佐藤栄作→田中角栄の系譜上にある。
それは、さておき民主党の結成の時には辻嘉六氏は亡くなっていた。当時のカネで鳩山由紀夫氏が18億円、鳩山邦夫が17億円出して資金を賄ったといわれている。いくら金持ちでも18億円とか17億円なんて、おいそれと出せるものではない。石橋ブリヂストンから鳩山兄弟が借金したというのが、当時の永田町雀の噂であった。真偽のほどは分からない。
鳩山兄弟が民主党の設立に動いたのは1996年。まず簗瀬進氏や船田元氏と新党構想を打ち上げているが失敗した。その後旧社会党系の横路孝弘氏や鳩山邦夫氏、簗瀬進氏、菅直人氏らと民主党を立ち上げている。1999年には鳩山由紀夫氏は民主党代表。
ことしのゴールデンウィーク最終日となった6日、鳩山由紀夫氏は鳩山グループ(民主党では派閥のことをグループと称している)の研修会を、長野県軽井沢町の鳩山別荘で行ったが、小沢一郎氏は現れなかった。
この別荘は2003年に自由党だった小沢一郎氏と鳩山由紀夫氏が会談して、自由党を吸収ではない合併で今の民主党を作る話をまとめた場所でもある。小沢一郎氏が来なかったことについて「きょうは(小沢氏は)来られません。理由はよく分かりませんが、やはりこういう状況だから、 遠慮されたのではないかと思います」と研修会に先立って鳩山由紀夫氏は意味深長な挨拶している。
いよいよ連休明けから政局は大きく動き出す。ヨーロッパ外遊から帰国した麻生首相は五月解散のカードをまだ捨てていない。小沢代表も辞任の素振りすら見せていない。小沢側近の山岡賢次国対委員長は「小沢さんはお辞めにならないと思いますよ。お辞めにならないと言ってますから。いかなるときもいろんな意見があるのは、むしろ健全なんです」と言っているのだが・・・。
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3304 ”鳩山家”と民主党 古沢襄

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