3312 「利権社会主義」脱却こそ日本復活の道① 伊勢雅臣

■1.小沢一郎は田中角栄の後継者?■
準大手ゼネコン「西松建設」が、小沢一郎・民主党代表の資金管理団体に違法献金をしていた事件で、前社長の国沢幹雄・容疑者らが、「(小沢代表の)大久保秘書に(岩手県の胆沢(いさわ))ダム工事が受注できるようお願いした」と東京地検特捜部に供述したという。
国沢容疑者らは特捜部の調べに、「西松は東北で仕事が取れず、小沢事務所に頼って献金した」とも供述、多額の献金を続けたことで「工事が取れた」と説明しているという。
地方で盛んに公共工事を起こして、そこから利権を得る、というのは、田中角栄が集大成した手法だが、西松建設側の供述が事実なら、小沢一郎は角栄流の後継者と言える。
田中角栄は「国土の均衡ある発展」という美名のもとに、国の税金を公共工事につぎ込み、その利権でカネを集め、そのカネと地方への利益誘導で票を集める、という手法で首相にまで登り詰めた。いわば「利権社会主義」革命である。
そして田中が首相になった時期に、高度成長は急停止し、赤字国債の巨額発行が始まった。今回は、田中角栄の利権社会主義革命が、いかに日本経済を狂わせたか、を見ていこう。
■2.社会主義者・田中角栄■
角栄が本質的には社会主義者であったことは、以下の発言からよく分かる。
子供が10人おるから羊かんを均等に切る、そんな社会主義者や共産主義者みたいなバカなこと言わん。キミ、自由主義者は別なんだよ。(羊かんを)チョンチョンと切ってね、いちばんちっちゃいヤツには、いちばんデッカイ羊かんをやるわけ。そこが違う。分配のやり方が違うんだ。・・・それが「自由経済」というもんだ。
これは「自由経済」どころか、「大きい奴」を「資本家階級」に、「ちっちゃい奴」を「労働者階級」に言い換えてみれば、まさに正統派社会主義者の言である。この理屈で、スターリンや毛沢東は資本家階級を抹殺して、財産を取り上げた。
角栄にとって、「大きい奴」は経済成長の恩恵を受けた「都市」「大企業」であり、「ちっちゃい奴」は発展が遅れていた「地方」「中小企業」であった。
角栄にこういう思想を教えたのが、理研コンツェルン創始者の大河内正敏だった。大河内は1930年代の大恐慌の際に「農村への工業移転こそ、農村の疲弊を救い、流入民の激増による大都市圏の政情不安、治安悪化をも救う理想の政策」という「農村工業論」を唱えて当時の「革新派」(その実は社会主義信奉の)軍人たちの注目を集めていた。
カネで票を集める政治手法は、社会党の農民運動指導者・三宅正一から学んだという。
初当選のころの田中は、有権者との付き合い方を「日農」(日本農民組合)を指導していた当時の三宅正一社会党代議士から伝授されたと言います。「田中君、一票が欲しければまずそこの家に上がってお茶をごちそうになることだ。そのうえで、お茶代を置いてくるんだ」と。有権者とのスキンシップですね。それを、若き日の田中はそのまま実行した。(小林吉弥『高橋是清と田中角栄』)
この「お茶代」が、地方公共工事などでの地元利益誘導に進化した。「農村工業論」で利権を作ってカネを集め、それを「お茶代」に使って票を集める。こうして角栄流「利権社会主義」が成立した。
■3.「日本列島改造論」の結末■
我が国にとって不幸だったのは、この社会主義者が自民党の中で権力を握り、「利権社会主義」革命を壮大な規模で実行してしまった事である。日本列島改造論には、次のような一節がある。
本州四国連絡三橋は四国の390万人にたいしてだけ架けるのではない。・・・日本列島の3分の1を占める近畿、中国、四国および九州を一体化し、広域経済圏に育てあげるために架橋するのである。昭和30年から15年間に35万人も減った四国の人口は、これらの架橋によって、やがて6百万人にふえ、8百万人に増加しよう。
最近では、大規模工業基地の建設の中心的な役割をになう大型の第3セクターもあらわれてきている。北海道東北開発公庫、青森県、財界などの出資によるむつ小川原開発株式会社が代表的なものであるし、近く苫小牧東部開発株式会社も設立されることになっている。
本州四国連絡三橋は総額約3.3兆円をかけて完成したが、それによって四国はどれだけ発展したのか。昭和45(1970)年の四国の人口390万人は全国人口の3.7パーセントだったが、平成20(2008)年には408万人と人口ではわずかに増加しているものの、人口比では3.2パーセントとかえって減少している。
むつ小川原開発構想も、開発された工業用地3,290ヘクタールのうち、分譲できたのは国家石油備蓄基地、核燃料サイクル施設など3分の1で、残りは売れ残っている。
苫小牧東部開発株式会社も、当初開発予定面積の1万ヘクタールのうち分譲できたのは1割以下の約800ヘクタールと、同様の失敗に終わっている。
「日本列島改造」の試みは、地方を豊かにするどころか、膨大な投資をムダにし、地方の豊かな自然を売れ残りの工業用地に変えただけに終わったのである。
■4.ムダに費やされた「新産業都市建設」82兆円■
むつ小川原も苫小牧東部も、昭和44(1969)年、角栄が自民党幹事長の時代に閣議決定された第二次全国総合開発計画の一部である。
その前の第一次全国総合開発計画は、角栄が池田内閣の大蔵大臣だった昭和37(1969)年に制定された。その一環として実施されてきた新産業都市建設計画は、北海道道央、八戸から、日向延岡、不知火有明大牟田に至る15地域を「産業都市」として建設しようという、これまた壮大な計画だった。
しかし、東京、名古屋、大阪の三大都市圏とその隣接地域をはずした計画ではあまりにも非現実的だということで、鹿島、東三河など6つの工業整備特別地域が加えられた。
この21カ所に注ぎ込まれた投資額の累計は、第5次新産業都市計画建設5カ年計画の最終年度である平成7(1995)年までで約82兆円に達した。
これだけの膨大な投資を注ぎ込んだ新産業都市は、どれだけ発展したのか。新産業都市の工業出荷額の全国に占めるシェアは、第一次計画の始まった昭和39(1964)年の9.7パーセントから、多少の上下を経て、9.4パーセントと微減となった。約82兆円もの巨費を注入されながら、投資を受けなかった他の地域よりも発展しなかったのである。大幅に増加するはずだった人口規模の対全国シェアも、横ばいにとどまった。
新産業都市建設や大規模工業団地開発と並んで、巨額の投資を続けてきたのが、道路建設である。ここでも角栄の作った仕組みが、今も尾を引いている。
昭和28(1953)年、まだ平議員の頃に、角栄は道路特定財源制度を議員立法で成立させ、揮発油(ガソリン)税を徴収して、それを財源に道路整備を進める仕組みの原形を作った。翌年から第一次道路整備5カ年計画が始まる。
以後、財源も自動車取得税、従量税などと拡大されつつ、毎年、巨額の道路建設投資が続けられた。ちなみに平成19(2007)年度は、7.7兆円もの投資が行われている。
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